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2014.12.15
#16
LIGプレス

【大事】2015年お正月休みのお知らせ

ヨシキ

皆さまこんにちは、広報担当のヨシキです。

いよいよ2014年も残すところあとわずか。今年もLIGブログの読者の皆さまには大変お世話になりました。

さて本日は、年末年始の休日についてお知らせさせていただきます。

2014年12月27日(土)〜2015年1月4日(日)までの9日間、株式会社LIGは年末年始のお休みを頂戴します。

来年もどうぞLIGを宜しくお願い申し上げます。

なぜ、年末年始は長く休むのか

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今回、9日間という長期に渡ってLIGはお休みを頂戴しますが、ここではなぜ年末年始は長く休むのか、ということについて考えていきたいと思います。

まず期間についてですが、一般的には官公庁が12月29日から1月3日までを休日としていることに準じる企業が多いようです。そこに土日が加わることで、カレンダー次第では9連休などの長期休暇となります。

ただし、就業規則で年末年始の休日についてどのように設定されているか次第でその期間は異なるため、必ずこの日・この期間を休みとしなければならないと、いうわけではありません。
実際、国民の祝日としても指定されているのは1月1日のみとなります。

それにも関わらず、多くの企業がまとまった期間を休みとしているのは、それが習慣化されているから(=得意先も他の企業も皆休みだから)という理由が大きいでしょう。

なぜ、まとまった期間を休むという習慣が定着したのか

これは、江戸時代における“奉公人たちが里帰りして新年を迎える習慣”に由来するものと考えられます。

そもそも江戸時代以前は休日という概念自体が存在せず、盆や正月、祭礼の日などにのみ仕事が休みとなっていました。祭礼はいつ発生するかわからないため、固定での休みは盆と正月しかなかったということになります。

さらに、奉公人の多くは住み込みであり、年に2回しかない休日はそれぞれの実家へと帰省することになります。

とはいえ、現代のような交通網は当然ながら整備されておりません。徒歩で険しい山道などを往かねばならず、何日もかかる大変な旅となります。

それゆえ、“帰省に伴う往復の移動日数込みとなる纏まった期間”が休日となる必要があったのです。

この習慣が、そのまま現在の年末年始休暇および夏季休暇につながったと言えるでしょう。

そもそも暦とは

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さて、LIGではグローバルスタンダードを重視しているため、暦についても現在世界で主流となっている太陽暦を採用しています。

日本の一般的な暦によれば、1年の最初の日は「元日」、1年の最後の日は「大晦日(おおみそか)」と呼ばれています。晦日(みそか)とはもともと毎月の30日のことを指しており、1年の最後の日は、そこに“大”が付くことで大晦日となるそうです。

それでは、私たちが現在当たり前のように用いているこれらの暦は、どのようにしてその日付が決まったのでしょうか。

グレゴリオ暦(太陽暦)とユリウス暦(太陰暦)

そもそも30日が晦日(みそか)と呼ばれていたのは、旧暦である「太陰暦」の影響となります。

太陰暦とは月の満ち欠けの周を1ヶ月とする暦法で、明治5年よりグレゴリオ暦(=太陽暦)を用いている日本では、基本的に「旧暦」といえば太陰暦のことを指します。

なお、グレゴリオ暦とは、1582年にローマ教皇・グレゴリウス13世によって制定された暦法です。太陰暦が月の満ち欠けに呼応しているのに対し、グレゴリオ暦は太陽の動きに呼応しているのが特徴です。

グレゴリオ暦以前は、ユリウス暦という紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定された暦法が長きに渡って用いられてきました。

ユリウス・カエサルとは英語読みである「ジュリアス・シーザー」の表記でも知られる共和制ローマの軍人・政治家で、愛人がクレオパトラだったことでも有名な人物です。
ポンペイウスを討伐するべくルビコン川を渡る際に発せられた「賽は投げられた」、暗殺時に叫んだ「ブルータス、お前もか」などの名言でも知られています。

特に後者は、ウィリアム・シェイクスピアによって書かれた政治劇・悲劇『ジュリアス・シーザー』によって有名となり、西洋においては“親しい者からの裏切り”を意図する格言として定着したそうです。

春分の日と復活祭

ユリウス暦とグレゴリオ暦の差分については、現在のグレゴリオ暦による1年の長さが365.24219日と定義されているのに対し、ユリウス暦では365.25日とされていました。このため、ユリウス暦と実際の太陽の動きの間には、1年あたりで約0.03日程度の差分が発生してしまいます。

10年程度の周期で考えれば特に支障の無い範囲のズレのように思えますが、約1,600年間にわたって蓄積されたズレは、当時既に約10日の差異にまで達していました。

これは教皇およびローマ・カトリック教会としては由々しき問題でした。

なぜなら、キリスト教においては極めて重要な祭日とされる「復活祭(イースター)」の日程を定めるうえで、10日の差異は看過できないズレだったからです。

復活祭は、毎年「春分後の最初の満月の次の日曜」におこなうものと定められており、ユリウス暦上でいう3月21日が春分の日として固定されていました。しかし実際には3月11日が春分日(天文現象としての太陽の春分点通過日)となってしまっており、この状況自体は数百年前から問題視されていました。

だからこそ、改暦は必要だったのです。

なお、イースターについては宗派や国などでいろいろ習慣等が異なるため詳細は省略しますが、一般的にはクリスマスと同様、家族でご馳走を食べて祝う行事となります。象徴的なアイテムとして有名なのは「イースター・エッグ」という彩色されたゆで卵などがあります。

閏年について

改暦においては、春分の日をより正確に測定するために「閏(うるう)年」を調整することがポイントになりました。

ユリウス暦においては4年に一度必ず366日の閏年が置かれていたのですが、グレゴリオ暦ではこれが「100で割り切れてかつ400で割り切れない西暦年は閏年としない」という置き方へと変更されました。

具体的には「400年に97回」の割合で閏年となることで、それまで1年あたり0.03日のズレが、0.004日のズレにまで改善されることになったのです。

つまり、ユリウス暦では128年あたりで発生していた1日のズレが、グレゴリオ暦では3,221年あたりで初めて発生するという計算となったのです。

この改暦により、1582年10月4日(木曜日)の翌日は1582年10月15日(金曜日)となりました。つまり1582年10月5日〜同年10月14日は、存在しないことになったのです。

日本における改暦

もちろん暦の変更は大変なことであり、世界中の国や地域で一斉に導入されたというわけではありません。特にカトリックが定めた暦法ということもあって、別の宗派では今でもユリウス暦を用いているところもあるそうです。

日本においては1872年(明治5年)12月3日を、グレゴリオ暦での1873年(明治6年)1月1日とすることとされました。

公布から施行までが約1ヶ月というスピード導入だったこと、12月という“年末”がいきなり消えたことなどに伴い相当の混乱を伴ったようですが、欧米列強に追いつき・追い越すためには何事も欧米流を基準とする必要のあった時代のことですから、仕方のないことだったのかもしれません。
(明治政府の逼迫した財政状況などの事情も背景にあったようです。)

なぜ「大晦日」と呼ばれるかについて

さて、話を元に戻しましょう。

太陰暦は月齢に対応していたため、新月となる瞬間を含んだ日を1日、15日の満月を過ぎて月が小さくなり、見えなくなってしまった日を「月が隠れてしまった日」という意味で、「月籠り(つごもり)」と呼びました。

この月籠りは、大晦日の「晦」という字でも表されるため、毎月の最後の日(=30日)が「晦日(みそか)」あるいは「晦(つごもり)」となったのです。

そして、この「晦日」に「大(おお)」が付くことで、「大晦日(おおつごもり)」あるいは「大晦日(おおみそか)」と呼んで、毎年1年の最後にやって来る日を表すようになった、と言われています。

これが大晦日なんですね。

なお、月の初日のことを「ついたち」と読むのも太陰暦の名残で、月が新月となる瞬間を含んだ太陰暦における初日を「月立」(=ついたち)と呼んでいたことに由来します。

新正月と旧正月の違い

旧正月とは旧暦による1月1日、つまり太陰暦でいう1月1日から数日という期間を指します。特に中国では1月1日を春節、1月15日を元宵として盛大にお祝いすることになります。

日本では太陰暦から太陽暦へと切り替えた際、各行事の実施タイミングについては「日付」がそのまま継承されたため、以前と比較した場合に季節などについて微妙に差異が生じるようになりました。

しかしアジア諸国では、今でも年越しといえば「春節」のほうを示す国も多く、中国、台湾、韓国、北朝鮮、ベトナム、シンガポール、マレーシア、インドネシア、ブルネイ、モンゴルでは祝日となっているそうです。

尚、日程については太陰暦に基づく祝日という関係から、日付が毎年異なります。

日本においては沖縄・奄美などの南西諸島の一部を除き、旧正月は一部の神社の祭典や寺での行事が残っているぐらいで、風習としては盛んなものではありません。それにも関わらず旧正月の印象が強いように感じられるのは、中華街などでの盛大なお祝いがニュースでよく取り上げられるためかと思われます。

太陽暦で正月に関する大まかなスケジュールを紹介しますと、1月15日は日本では小正月といわれ、その日の朝には小豆を入れたお粥を食べて、その年の豊作と無病息災を願います。

いわゆる「松の内」と呼ばれる期間は、元日である大正月からこの小正月までの間とされますが、地域によっても異なるようです。

なぜ、大掃除をするのか

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さて、LIGでは「ゴミはゴミ箱に捨てる」「食器を使ったら洗う」などの掃除に関する風習があります。
私たちは新年を迎えるために様々なことをおこないますが、「一年の汚れを落とす」というような意味合いでおこなわれる風習が、大掃除となります。

年末ならばいつ実施してもいいように思われていますが、江戸時代は旧暦の12月13日におこなうものと定められていました。江戸城の大掃除が、1640年(寛永17年)以来、正月事始めとしてその日と決まっていたためです。

正月事始めとは

もともと大掃除は「すす払い」と呼ばれるもので、単に皆で一斉に掃除をするというものではなく、年神(歳徳神ともいわれ、新しい年の五穀豊穣を約束してくれる神)をお迎えして祭るために家の中を清める、という宗教的行事の意味合いが強いものでした。

大掃除に限らず、12月13日は「正月事始め(ことはじめ)」とされ、上記の「すす払い」のほかに「松迎え」などの正月の準備を始める日とされています。

ちなみに松迎えとは、門松に飾る松や、おせちを調理するための薪などを採りにいくことです。

その他、餅つきや門松・松飾りの作成、おせち料理や雑煮の用意なども含まれますが、最近では各家庭で用意するのではなく購入が一般的となってきたこともあり、正月事始めの日は昔ほど重要視されなくなっています。

徳川家康の転封

話を江戸城に戻しましょう。

江戸城は徳川家康が築いたと思っている人も多いようですが、正しくは1457年に太田道灌という武将が築いた城を、徳川氏が段階的に改修していったものになります。

江戸幕府が開かれて以降は現在の東京につながる世界有数の都市として発展を遂げることになる江戸ですが、家康が転封された当時は“漁村しかないド田舎”とみなされていました。

そもそも家康が江戸に入ることになったのは、豊臣秀吉による北条氏討伐の論功行賞の結果でした。
その貢献度を評価され、関八州(今の関東地方)240万石が与えられることになったのですが、引き換えにそれまでの領土であった三河・遠江などを返上することになってしまいました。

石高数だけをみれば100万石以上の大幅加増だったのですが、当時の関東は水はけの悪い湿地帯であり、ただ広いだけの田舎を与えられた都落ちの印象が拭えない措置だったと言われています。
さらに、北条家が長きに渡って統治していた土地に、北条家を滅ぼした当人である徳川家が入るわけですから、反発も大きかったことでしょう。

徳川の家臣団も先祖伝来の三河の土地を離れることになる上、箱根を越えなければ東海道に出ることもできない江戸の土地は、当時の日本の中心であった京・大阪からはあまりにも遠く、強い不満を抱えたであろうことは容易に想像されます。

家康と秀吉

そもそも秀吉のかつての主君である織田信長と徳川家康は同盟関係にあり、秀吉と比べて家康のほうが格上だという意識が家臣団にはありました。

もちろん秀吉としても、それらの問題は十分に理解したうえでの転封の打診です。これから天下の頂点に立とうとしている秀吉自身の権威に直結する問題である以上は、簡単に引くことはできません。
事実、尾張・伊勢から家康の旧領への転封を拒んだ織田信雄は、100万石の所領を没収されています。既に秀吉は、信長の息子である信雄に対してすら容赦の無い処置をとるような立場となっていたのです。

このように、断れば秀吉との全面戦争に突入する事態となりかねない(一説には、それが秀吉の狙いだったとも)という状況の中で、家康はその命令に従うことを決断しました。

数多くの試練に見舞われた家康の生涯の中でも、この転封は特に厳しい出来事の1つと見なされており、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」の句で表現される “耐える”精神が発揮された事例としてもよく取り上げられています。

しかし、家康にとって江戸行きは、決して嫌々受け入れた処置というわけではありませんでした。

「江戸」がもたらした可能性

江戸は水運の要となる土地で経済的発展が見込めるうえ、平地で広大な関東平野が背後に広がることから、当時から大都市化が可能な土地と見られていたようです。(土木技術の発達により、以前は不可能だった埋め立てなどが広範囲に渡って可能になったことも大きいとされます。)

さらに、当初鎌倉を居城にしようとしていた家康に、江戸発展の可能性のアドバイスをしたのは当の秀吉だったという説もあります。

これらを鑑みると、デメリットばかりのように思える江戸への転封も、京・大阪から遠くなることを除けば、将来性という点では実は大きなメリットがあったように考えられます。

そして、強力な軍事力を持つ一方で、昔ながらの“農家と武家の兼業スタイル”であった三河武士団を何とか近代化させたい、というのは家康のかねてからの願いでもありました。

織田信長の軍団が強かったのは、土地に縛られずに機動的に動けるよう兵農分離が徹底されていたからであり、いつまでも三河の土地に縛られていては強くなることができないと考えていたのでしょう。

これが結果的に、江戸時代における絶対的な身分制度である「士農工商」の確立へとつながったのです。

余談ですが、後に「江戸からは遠い」という理由で秀吉の朝鮮出兵を拒否できるなど、秀吉の勢力圏から遠ざかることで生じたメリットも多かったようです。

江戸城という象徴

このように複雑な背景を持つ江戸城ですが、もともとが小規模な城であったこと、関ヶ原の戦い以降は軍事的意義が薄れていったことなどから、1603年の江戸開府以来、約60年に渡って改築が継続して実施されることになりました。

その後、1868年に明治新政府軍へ明け渡されるまで江戸城は、常に幕府の中心であり続けました。明け渡しの際も、勝海舟らの努力によって江戸は戦場となることなく無血で開城されたように、江戸城は平和の象徴であったともいえるかもしれません。

なお天守閣については、1657年の「明暦の大火」で焼失して以来、再建されることはありませんでした。当時の江戸の街の三分の二が焼失するほどの大火災であり、街の復興を優先させたというのが直接の理由でしたが、経済的負担を強いてまで戦国の象徴である天守閣を復活させる理由が、その頃には既にどこにも見当たらなかったのでしょう。

なぜ、年越しそばを食べるのか

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さて、LIGでは社員にうどんが支給されるという少し変わった福利厚生の制度がありますが、そばを食べることもあります。

大晦日に年越しそばを食べるという風習については、こちらも江戸時代に定着したものだと言われています。

由来については諸説あるのですが、そばは長く伸ばして細く切ってつくる食べ物であることから、“細く・長く”、つまり「健康長寿」などを願った縁起担ぎ、というのが有力な説の一つとされます。(ちなみに引越そばも“細く長くお世話になります”の意味が込められています。)

その他、「金細工師が散らかった金粉を集めるのにそば粉を使っていたため、“金”を集める縁起物だった」という説、「他の麺類よりも切れやすいことから、今年一年の災厄を断ち切るために食べるものとなった」という説などがあります。
古いところでいえば、鎌倉時代に謝国明という商人が、博多の承天寺にて、年を越せない貧しい人相手にそば餅を振る舞ったのがその起源とも言われています。

年越しそばをいつ食べるのが適切か、については明確な答えは無いようで、とにかく年内に食べ切るのがいいとされます。
その年の厄を断ち切るために食べるのに年を越しては意味がない、などの考えからのようです。(ただし、地域によっては元旦にそばを食べるところもあるようです。)

徳川家康と天ぷら

当時のそばは、寿司、天ぷらとあわせて「江戸の三味」と呼ばれるほど庶民に人気が高い料理でした。

徳川家康が天ぷらを食べ過ぎて死んだという逸話は有名ですが、家康が生きていた頃はまだまだ珍しい料理であった天ぷらも、明暦の大火の頃には屋台で出回るほど庶民向けの料理として定着していたようです。

ただ、家康の本当の死因は胃癌であり、天ぷらは体調を崩すきっかけとなっただけ(日頃健康に気を遣い節制を続けていた家康が、当時珍しいゴマ油を使った天ぷらを食べたため、体調を崩した)、という見方が正しいようです。

胃癌を煩っていた歴史上の人物として他に有名なのが、ナポレオン・ボナパルト。こちらはヒ素による暗殺の可能性なども指摘されましたが、死後に解剖して死因が発表されていることもあり、やはり胃癌という見方が正しいようです。

なぜ、除夜の鐘をつくのか

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さて、LIGは仕事中にBGMが流れる職場となっているのですが、鐘の音が聞こえてくることはありません。

鐘といえば、12月31日の大晦日に、人間の煩悩の数だけつくとされることで有名な「除夜の鐘」です。起源は中国・宗にあり、日本へは鎌倉時代に伝わったとされています。

108という数字になったことについては諸説あり、風水的な観点、四苦八苦の語呂あわせ(4×9+8×9)など様々です。ただ、実際は“数の多さ”をあらわしたかっただけとも言われます。

そもそも煩悩の数自体が宗派などによってもさまざまで、多い場合は約84,000ともいわれます。

三毒とは

煩悩の根源は「三毒」と呼ばれる貧・瞋・癡を指すとされます。

貪(とん)は万物を必要以上に求める心、瞋は怒りの心、癡は真理に対する無知のことを意味しています。中でも癡は、物事の道理を知らぬ根本的な問題とみなされます。

煩悩は基本的には肉体や心の欲、怒りや執着などのことであり、何かを成そうとするときに邪魔をすることになる象徴です。
ゆえに、仏道の修行によってこれらを消滅させることで、“悟り”が開かれるとされます。

六根本煩悩とは

三毒に、慢・疑・邪見を加えた六種は六根本煩悩と呼ばれます。

慢は他者と自分を比較して優越感を持つようにあるという慢心、疑は他を信じられないという疑惑、邪見は妄想からよこしまな見方となることを言い表しているとされます。

この六根本煩悩が抑えられなくなると、六道へ迷い込んでしまいます。六道とは仏教における6種類の迷いのある世界のことで、迷いのある者はこの六道を輪廻することになります。

六道とは、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の6つであり、前半の3つを三善趣、後半の3つを六悪趣と称します。

このうち最下位に位置づけられる「地獄道」がいわゆる“地獄”です。つまり煩悩を持ち続けることは、最悪の場合は地獄に落ちてしまうということになります。

だからこそ、除夜の鐘をつくことで煩悩を振り払うことは大切なのです。

他の日ではなく大晦日に鐘をつく理由は、本来であれば日頃厳しい修行を積むことで取り除かれる煩悩が、修行を積んでいない一般人にも心の乱れや汚れを祓う力が宿るのが除夜(=大晦日)だという信仰によるものだそうです。

三途の川について

先ほど少し話に出た地獄に至るまでには、さまざまな段階を踏む必要があります。

人間は死後、まずは三途の川を渡ることになります。

三途の川は、この世とあの世を分ける境目にあるとされる川で、渡船によって向こう岸(あの世)へ渡河します。

このとき、船の料金は「六文」と定められており、それゆえに仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が生まれました。

三途の川には懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者は渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取られてしまうからです。

六文銭と真田家

余談ですが、この六文銭を家紋としていたことで有名なのが、武田家に仕える信濃の豪族・真田家でした。

特に、武田信玄に仕えた真田昌幸・幸村親子は優れた武将であったと同時に、家康とも浅からぬ因縁を持つ存在でもありました。

関ヶ原の戦いが勃発した際、38,000人の大軍を率いて関ヶ原を目指す徳川秀忠(家康の息子・後の第2代将軍)を、昌幸・幸村親子はわずか2,000人の軍勢で足止めさせることに成功。この結果、秀忠は関ヶ原の開戦に間に合わず、家康の激しい怒りを買うこととなりました。
徳川軍の半数を抱える秀忠が開戦に間に合わなかったことは、家康の敗北に直結しかねない大失態だったといえます。

また、大阪の陣においては劣勢の豊臣軍の中で幸村の軍勢が奮戦し、“家康が切腹を考えるほど”本陣に迫ったとされています。

これらの活躍もあってか「真田十勇士」という物語がつくられるなど、幸村は後世において非常に高い人気を得た武将の一人となりました。

賽の河原とは

さて、引き続き地獄へ至る過程をみていきましょう。

三途の川の河原が、いわゆる「賽の河原」と呼ばれる場所になります。親より先に死んだ子供たちが、その親不孝を罪として責め苦を受ける場所とされています。

子供たちは、親の供養のために小石を積んで塔を完成させなければならないのですが、完成する直前で必ず鬼に塔を崩されてしまいます。

そのため賽の河原は、“無駄な努力”のたとえにも用いられる言葉となります。

この救いの無い状況を最終的に救済してくれるのが地蔵菩薩だと言われています。

地蔵菩薩について

日本各地の至るところで見かけるお地蔵様のことであり、仏教に興味の無い人にも親しみを持たれている存在ではないでしょうか。

釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの期間は現世に仏が不在となりますが、その期間に六道を輪廻する衆生(生命あるものすべて)を救う存在が地蔵であるとされています。

地蔵菩薩に関する代表的な経典として、「地蔵菩薩本願経」があり、善男善女のための二十八種利益について説かれています。

内容は「善き男性と善き女性が、地蔵菩薩の姿を見たり、お経を聴いて読誦し、香華をあげ、飲食、衣服、珍しい宝を布施し、供養をして褒め称え仰ぎ見て礼拝をしたなら、二十八種の功徳を得られるでしょう」というものであり、それゆえに各地のお地蔵様には赤い服が着せられ、さまざまなお供え物がされるのであると思われます。

そして意外に知られていない事実ですが、冥界の王として死者の生前の罪を裁く神である「閻魔大王」は、地蔵菩薩の化身となります。

十王による審議について

三途の川を渡ると、いよいよ生前の罪の審議が始まります。閻魔大王が一人で次々と審議をしていくイメージが強いかもしれませんが、実際は7日ごとに閻魔大王をはじめとする「十王」の裁きを7回受けた後で最終的な罰が決定されることになります。
詳しい手順などについては以下をご参照ください。

死者の審理は通常七回行われる。
没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理を担当する。七回の審理で決まらない場合は、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質、救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みとなっている。
なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないをなくすための受け皿として機能していたようだ。
十王の裁判の裁きは特に閻魔王の宮殿にある「浄玻璃鏡」に映し出される「生前の善悪」を証拠に推し進められるが、ほかに「この世に残された遺族による追善供養における態度」も「証拠品」とされるという。

出典元:Wikipedia

八大地獄とは

審理の結果、六道のうちの地獄道に落とされてしまった場合が、いわゆる「地獄行き」となります。

地獄の種別やその位置は経典により差異がありますが、基本的に地獄には様々な階層があり、生前の罪の重軽によって堕ちる場所が異なります。重いほど下層に堕とされるという仕組みです。

ここでは、地獄の中でも最も代表的とされる八大地獄について紹介していきたいと思います。尚、7つ目の地獄までは1つ階層を降りるごとに苦しみは10倍、刑期は8倍となっていきます。

最上層(最も罪が軽い層)から順にみていきましょう。

1. 等活(とうかつ)地獄

主に殺生をした衆人が落ちる地獄で、たとえ虫を殺した者であっても、それを悔い改めなければこの地獄に落ちるとされています。

この等活地獄の中の衆人は互いに敵対心を抱き、自らの身に備わった鉄の爪や刀剣などで殺し合います。殺し合いをしていない衆人も、獄卒(地獄の鬼)に身体を切り裂かれ、粉砕されて死ぬのですが、死んだ直後に涼風が吹き、獄卒の「活きよ、活きよ」のという声で元の身体に戻ってしまいます。

このような責め苦が繰り返されるゆえに、等活地獄といいます。

尚、この「死んでもすぐに肉体が再生して何度でも責め苦が繰り返される」という現象は、他の八大地獄や小地獄にも共通する地獄特有の現象です。

また、地獄の刑期は衆人の寿命によって決まるのですが、等活地獄での刑期(寿命)は500年とされています。但し、ここでいう500年とは人間界の500年ではなく、等活地獄における500年となります。

人間の50年間が等活地獄の1日1夜(つまり1日)となり、これが500年続くという計算になります。これは人間界の時間に換算すると、約1兆6653億年となります。

2. 黒縄(こくじょう)地獄

等活地獄までの罪状に加え、盗みを犯した者が落ちる地獄です。

この地獄以降、獄卒から与えられる責め苦についての描写がかなりグロテスクになってしまうため詳細は割愛させていただきますが、熱く焼けた縄や斧、ノコギリなどが用いられます。

刑期は、人間界の100年を1日とした場合の1000年間が黒縄地獄の1日で、それが1000年間続きます。これは人間界の時間に換算すると、約13兆年となります。

3. 衆合(しゅうごう)地獄

黒縄地獄までの罪状に加え、淫らな行いを重ねた者が落ちる地獄です。

衆人は圧殺されるなどの責め苦を受けるようです。

刑期は、人間の200年を1日とした場合の2000年間が衆合地獄の1日で、それが2000年間続きます。これは人間界の時間に換算すると、約106兆5800億年となります。

4. 叫喚(きょうかん)地獄

衆合地獄までの罪状に加えて、酒を飲んだり売ったり、酒に毒を入れて人殺しをしたり、他人に酒を飲ませて悪事を働くように仕向けたりした者が落ちる地獄です。
(酒に関連した行いは基本的に罪になるようです。)

熱湯の入った大釜や鍋などが責め具として使用されます。

刑期は、人間の400年を1日とした場合の4000年間がこの叫喚地獄の1日で、それが4000年間続きます。これは人間界の時間に換算すると、約852兆6400億年となります。

5. 大叫喚(だいきょうかん)地獄

叫喚地獄までの罪状に加えて、嘘をついた者が落ちる地獄です。

叫喚地獄で使われる鍋や釜よりも、さらに大きく強力な物が用いられるようです。

刑期は、人間の800年を1日とした場合の8000年間がこの大叫喚地獄の1日で、それが8000年間続きます。これは人間界の時間に換算すると、約6821兆1200億年となります。

6. 焦熱(しょうねつ)地獄

炎熱(えんねつ)地獄とも呼ばれ、大叫喚地獄までの罪状に加えて、仏教とは相いれない価値観(異教など)を実践したものが落ちる地獄です。

とにかく熱く、焦熱地獄の炎に比べると、それまでの地獄の炎も雪のように冷たく感じられるほどだそうです。

刑期は、人間の1600年を1日とした場合の16000年間がこの焦熱地獄の1日で、それが16000年間続きます。これは人間界の時間に換算すると、約5京4568兆9600億年となります。

7. 大焦熱(だいしょうねつ)地獄

焦熱地獄までの罪状に加えて、犯持戒人(尼僧・童女にたいする乱暴)をした者が落ちる地獄です。

衆人は焦熱地獄より極熱で焼かれて焦げるようです。

刑期は「半中劫(はんちゅうこう)」とされ、これは宇宙が終わる時間までの半分という意味になります。

8. 阿鼻(あび)地獄

大焦熱地獄までの罪状に加えて、家族や聖者(仏教でいうところの僧侶)を手にかけた者が落ちる地獄です。

「無間地獄」とも呼ばれる、間断のない苦しみに責め苛まれる地獄になります。

地獄の最下層に位置する分、責め苦も凄まじいものがあるようです。これまでの七つの地獄の苦しみを合計したものの千倍の苦しみを味合わされるとのことで、ここに堕ちて苦しむことに比べれば、これまでの地獄は天国みたいなものだとさえ言われています。

刑期は明確に示されていないのですが、1辺が1由旬(7km)の巨大な正方形の石を、100年に1度薄い布で軽くは払うという作業を繰り返し、石がすり減って無くなるまでよりも長いとされています。

なお、落語「寿限無」に登場する「五劫の擦り切れ」とは、上記の期間を1劫とみなしたうえでの5倍の期間であることを意味しており、非常に長いことを喩えた表現になります。

寿限無とは

「寿限無」について少し補足しておきますと、寿限無は早口言葉あるいは言葉遊びとして知られる古典的な噺であり、落語の前座噺となります。

ストーリーとしては、父親が子供に縁起のいい名前をつけようと、和尚におめでたい言葉をいろいろ聞いた結果、それらを全て盛り込んだ名前を付けることにします。

結果、子供の名前が「寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝る処に住む処やぶら小路の藪柑子パイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」となってしまったという話です。

これらの言葉がそれぞれどのくらいの長さを表現しているのか、1つ1つみていきましょう。

寿限無、寿限無

計り知れないほどの寿命を表しています。

五劫の擦り切れ

先述したとおり、「1辺が1由旬(7km)の巨大な正方形の石を、100年に1度薄い布で軽くは払うという作業を繰り返し、石がすり減って無くなるまで」の長さの5倍を表しています。

海砂利水魚

海砂利は海の砂利、水魚は水に住む魚のことであり、どちらも数え切れない、捕り尽くせないほど多いということから「無限」を表しています。

水行末 雲来末 風来末

水の行く末、雲の来る末、風の来る末方には果てがない、というたとえであり、「果てしない」ことを表しています。

食う寝る処に住む処

人間が生きていく上で欠かせない、食うところ・寝るところ・住むところのことであり、「大切なこと、無限に必要なこと」を表しています。

藪ら柑子の藪柑子

藪柑子とは、生命力豊かな縁起物の木の名称です。
春に若葉が出て、夏に花が咲き、秋に実を結び、冬に赤くなり霜をしのぐということから「長持ちしてめでたいこと」を表しています。

パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナー

パイポとは、昔の唐土にあったとされる架空の国の名前で、長生きしたことで有名な王様の名前が「シューリンガン」。同様に、長生きしたお后の名前が「グーリンダイ」。二人の娘で、やはり長生きした姉妹の名前が「ポンポコピー」と「ポンポコナー」です。
長寿だった人たちの名前にあやかろうという意図になります。

長久命の長助

長久命とは、長く久しい命を表し、長助とは、長く助けるという意味合いを持ちます。

徳川家康と鐘

さて、家康にとっての鐘といえば、やはり除夜の鐘ではなく「方広寺の鐘」があげられるのではないでしょうか。

関ヶ原の戦い後、豊臣家を滅ぼすための戦争を仕掛ける理由を探していた徳川家は、豊臣秀頼が家康のすすめに応じて再建した方広寺大仏の梵鐘に刻まれていた「国家安康」「君臣豊楽」という字句に注目しました。

「前者は家康の名を分割し身を切断することを意味しており、後者は豊臣家の繁栄を祈願している」という、非難というより単なる言い掛かりから処分をしようとしたことで、狙い通りに豊臣方を憤激させることに成功しました。

実際、この挑発がきっかけとなって大阪の陣にまで突入し、豊臣家は滅亡することになります。なお、「鐘銘事件」と呼ばれるこの事件の首謀者は、江戸を本拠地とすることを進言した天海僧正だったとされています。

なぜ、日本では年初めと年度始めがあるのか

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新年の始まりは元旦ですが、年度の始まりは4月となるのが日本では一般的です。これについては明確な理由が示されているわけではないのですが、有力な説としてあげられるのは明治政府による「会計年度」の導入の影響です。

江戸時代までは“年度”という考え方は存在せず、1月から12月までを単位として年貢の徴収(=会計)をおこなっていました。しかし明治維新後、政府の財政は非常に苦しくなり、1月まで会計を待てなくなってしまいます。そのため、何度か会計年度として始期を調整した結果として、4月〜3月末の期間が年度として定着しました。

その結果として、企業の年度なども便宜上の問題から4月始期を採用するようになりました。学校が4月開始となったのも、国の会計年度と同期させたのが理由となります。(公立校は税金で運営されているため、会計期間は同一にするのが望ましいため)

ちなみに、日本中のほとんどの人に知られていないのですが、LIGの年度の始まりは6月となっています。

正月の風習について

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さて、LIGのメンバーは基本的に元日は「あけおめ」「ことよろ」とSNS上でつぶやくだけのbotと化すのですが、意外に知られていないのが「正月」という言葉の定義です。

実は「正月」とは「1月」の別名であり、特定の期間ではなく、その月全体を指す言葉となります。つまり、正確には1月1日〜1月31日までの期間全体が「正月」となるのです。

しかし現在においては、正月といえば「三が日」か「松の内」のいずれかの期間と考えるのが一般的です。

三が日とは、元旦・2日・3日までの3日間のみを指します。一方で、松の内とは元旦から15日までの期間を指しますが、最近では7日までを指す場合も多くなりました。これは“7日に七草粥を食べるまでが松の内”という考え方によるものです。

以下、正月のさまざまな風習についてみていきましょう。

お節料理

もともとは「五節句」という、江戸時代において重要な年中行事として設定された年に5日の祝日における祝儀料理全てを指していました。

五節句とは、1月7日の「人日」、3月3日の「上巳」、5月5日の「端午」、7月7日の「七夕」、9月9日の「重陽」となります。

このうち最も重要とされる「人日」の節句の正月料理だけを特別に「お節料理」と呼ぶようになりました。

その後、1月7日ではなく、正月三が日または松の内の期間において食べる料理を指すようになりました。(1月7日に食べる「七草粥」は、この節句料理の一部となります)

五節句について

人日以外の4日については以下のようになります。

  • 3月3日の「上巳」は桃の節句、ひな祭りのことであり、節句料理は菱餅や甘酒などになります。
  • 5月5日の「端午」は菖蒲の節句、今でいう子供の日であり、節句料理は関東では柏餅、関西ではちまきとなります。
  • 7月7日の「七夕」はそのまま七夕のことであり、節句料理は素麺となります。
  • 9月9日の「重陽」は菊の節句で、現在では他の節句と比べてあまり実施されておりません。邪気を払い、長寿を願って菊の花を飾ったり、節句料理である菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わすなどして祝っていたようです。

なお、正月料理は江戸時代の武家作法が中心となって形作られたとされており、重箱にお節料理を詰める今の形が定着したのは、明治以降のことと言われています。

年始の挨拶

御年賀や御年玉を持参し、親戚やお世話になっている方を訪問するのが年始の挨拶ですが、歴史上重要な事件が発生したのは1600年のお正月のことでした。

豊臣秀吉の没後、実質的に政権を握ることになった徳川家康は、各地の大名家に年始の挨拶を求めました。

これは、現在でも目下の人が目上の人の家に出向くのが礼儀とされているように、家康を主とみなしていることを態度で示せという要求になります。

家康を恐れる多くの大名は年始の挨拶に出向く中で、上杉家だけはきっぱりとこの要求を拒絶します。

さらに上杉家から出奔した家臣が「上杉家当主の上杉景勝には、(家康に対して)謀反の気配があります」と家康に報告します。もともと上杉家は、無断で軍備の増強を進め、城の防備を固めるなど、着々と家康相手に合戦の準備を進めているという噂が流れていました。

事態を重くみた家康は、一連の件についての釈明を上杉景勝に求める手紙を出すのですが、上杉家の重臣・直江兼続は、以下のように回答します。これが有名な「直江状」と呼ばれる手紙となります。

一、東国についてそちらで噂が流れていて内府様が不審がっておられるのは残念なことです。しかし、京都と伏見の間においてもいろいろな問題が起こるのはやむを得ないことです。とくに遠国の景勝は若輩者ですから噂が流れるのは当然であり、問題にしていません。内府様にはご安心されるよう、いろいろと聞いて欲しいものです。

一、景勝の上洛が遅れているとのことですが、一昨年に国替えがあったばかりの時期に上洛し、去年の九月に帰国したのです。今年の正月に上洛したのでは、いつ国の政務を執ったらいいのでしょうか。しかも当国は雪国ですから十月から三月までは何も出来ません。当国に詳しい者にお聞きになれば、景勝に逆心があるという者など一人もいないと思います。

一、景勝に逆心がないことは起請文を使わなくても申し上げられます。去年から数通の起請文が反故にされています。同じことをする必要はないでしょう。

一、秀吉様以来景勝が律儀者であると家康様が思っておられるなら、今になって疑うことはないではないですか。世の中の変化が激しいことは存じていますが。

一、景勝には逆心など全くありません。しかし讒言をする者を調べることなく、逆心があると言われては是非もありません。元に戻るためには、讒言をする者を調べるのが当然です。それをしないようでは、家康様に裏表があるのではないかと思います。

一、前田利長殿のことは家康様の思う通りになりました。家康様の御威光が強いということですね。

一、増田長盛と大谷吉継がご出世されたことはわかりました。たいへんめでたいことです。用件があればそちらに申し上げます。榊原康政は景勝の公式な取次です。もし景勝に逆心があるなら、意見をするのが榊原康政の役目です。それが家康様のためにもなるのに、それをしないばかりか讒言をした堀監物(直政)の奏者を務め、様々な工作をして景勝のことを妨害しています。彼が忠義者か、奸臣か、よく見極めてからお願いすることになるでしょう。

一、噂は上洛が遅れているから生まれたことでしょうが、実際は今まで申し上げたとおりです。

一、武器についてですが、上方の武士は茶器などの人たらしの道具をもっていますが、田舎武士は鉄砲や弓矢の支度をするのがお国柄と思っていただければ不審はないでしょう。景勝が不届きであって、似合わない道具を用意したとして何のことはありません。それは天下に不似合いのことだと思います。

一、道や船橋を造って交通の便を良くするのは、国を持つ者にとっては当然です。(移邦前の)越後国においても船橋道をつくりましたが、それは移邦後に造った橋でないことを堀監物は知っているはずです。越後は上杉家の本国ですから、堀秀治ごときを踏みつぶすのに道など造る必要はありません。景勝の領地は様々な国と接していますが、いずれの逆居でも同じように道を造っています。それなのに道を造ることに恐れをなして騒いでいるのは堀監物だけです。彼は戦のことをまったく知らない無分別者と思ってください。いくら他国への道を造ろうとも、景勝も一方にしか軍勢を出せないというのに、とんでもないうつけ者です。江戸からの御使者は白河口やその奥を通っておられますので、もし御不審なら使者を下されて見分させてください。そうすれば納得されるでしょう。

一、今年の三月は謙信の追善供養にあたります。景勝はその後夏頃お見舞いのために上洛するおつもりのようです。武具など国の政務は在国中に整えるよう用意していたところ、増田長盛と大谷吉継から使者がやってきて、景勝に逆心がなければ上洛しろとの家康様のご意向を伝えられました。しかし、讒言をするものの言い分をこちらにお伝えになった上で、しっかりと調べていただければ、他意はないとわかります。ですが逆心はないと申し上げたのに、逆心がなければ上洛しろなどと、赤子の言い方で問題になりません。昨日まで逆心を持っていた者も、知らぬ顔で上洛すれば褒美がもらえるようなご時世は、景勝には似合いません。逆心はないとはいえ、逆心の噂が流れている中で上洛すれば、上杉家代々の弓矢の誇りまで失ってしまいます。ですから、讒言をする者を引き合わせて調べていただけなくては、上洛できません。この事は景勝が正しいことはまちがいありません。特に景勝家中の藤田信吉が7月半ばに当家を出奔して江戸に移った後に上洛したということは承知しています。景勝が間違っているか、家康様に表裏があるか、世間はどう判断するでしょうか。

一、申し上げるまでもありませんが、景勝に逆心など全くありません。しかし、上洛できないように仕組まれたのでは仕方ありません。家康様の判断通り上洛しなければならないことはわかっています。このまま上洛せず、太閤様の御遺言に背き、起請文も破り、秀頼様をないがしろにするようでは、たとえ兵を起こして天下を取っても、悪人と呼ばれるのは避けられず、末代までの恥辱です。そのことを考えないわけはありませんので、どうかご安心ください。しかし讒言をする者を信用され、不義の扱いをされるようではやむを得ません。誓いも約束も必要もありません。

一、景勝に逆心があるとか、隣国で会津が攻めてくると言いふらし、軍備を整えるのは無分別者のやることです。聞くまでもありません。

一、家康様に使者を出して釈明するべきとは思いますが、隣国から讒言をする者、家中から藤田信吉が出奔するような状況では、(家康様も)逆心があると思われているでしょう。そこに使者など出しては表裏があると噂されるでしょう。ですから讒言をする者を調べられなくては、釈明などできません。我々には他意などありませんので、しっかりお調べになれば我々も従います。

一、遠国なので推量しながら申し上げますが、なにとぞありのままにお聞き下さい。当世様へあまり情けないことですから、本当のことも嘘のようになります。言うまでもありませんが、この書状はお目にかけられるということですから、真実をご承知いただきたく書き記しました。はしたないことも少なからず申し上げましたが、愚意を申しまして、ご諒解をいただくため、はばかることなくお伝えしました。侍者奏達。恐惶敬白。

直江山城守兼続

出典:Wikipedia

天下を掌握しつつあった家康に対する、上杉家からの明確な挑戦状という内容となっています。

このような返信が来るのを見越したうえでの家康の挑発だったという説、上杉家と石田三成がすでに連携しており家康を誘い出すためにわざと過激な手紙を書いたという説、そもそも偽書だったという説、など後世で諸説飛び交うことになった書状ですが、いずれにせよこの直江状によって「会津征伐」は決定されました。

1600年6月、家康は大軍を率いて大阪城を出発。そして一時的に家康派の主力武将が不在となった大阪で、石田三成がついに挙兵します。

こうして、家康の江戸幕府開府のための最大の戦いである「関ヶ原の戦い」の序章が始まったのです。

お年玉

お正月の子供たちの一番の楽しみといえば「お年玉」ではないでしょうか。もともとお年玉とは「年神様に奉納された鏡餅を参拝者に分け与える」という神事のことでした。

鏡餅は鏡をかたどっており、鏡は魂(=玉)を映すものとされていたことから、年神様の玉に“御”をつけることで「御年玉(おとしだま)」と称されるようになりました。そして、年神様のお供え物として備えられたお餅を、年神様の賜りものとして皆で分け合って食べるようになったことが、現在のお年玉の形式の始まりだと言われています。

御年賀

御年玉と混同されやすいのが「御年賀」または「御年始」と称されるものです。

正月の訪問時、家人へは贈答物として「御年賀」または「御年始」を持参しますが、子供達へのおみやげとして持参するのが「お年玉」となります。

持参する時期としては正式には三が日の間とされますが、松の内であれば特に問題はないとされています。松の内を過ぎてしまった場合は、表書きを「寒中見舞い」と変更して持参するのがマナーとされます。

この御年賀を文書に代えたものが、お馴染みの「年賀状」です。なお、年始の挨拶の習慣自体は奈良時代からあったとされ、文書による挨拶も既に平安時代にはおこなわれていたようです。

門松

門松を飾ることは、室町時代には既に現在と同じように玄関の飾りとする様式が決まったとされているような、とても歴史のある風習です。

単なる正月飾りではなく、もともとは歳神の依代といわれ、歳神が宿る安息所、下界に降りてくるときの目標物と考えられていました。

この歳神こそが別名を「お正月さま」と呼ばれる神様となります。

式神について

さて、門松の役割でもある“依代”といえば、陰陽師が呪法をおこなうときに用いる紙人形が有名で、「式神」とも称されます。

ちなみに陰陽師の代表ともいえる阿倍晴明が使役したという式神に「十二天将(十二神将)」があります。

これらは仏教の十二天(帝釈天、火天、焰摩天、羅刹天、水天、風天、毘沙門天、伊舎那天、梵天、地天、日天、月天)、および十二神将(宮毘羅、伐折羅、迷企羅、安底羅、頞儞羅、珊底羅、因達羅、波夷羅、摩虎羅、真達羅、招杜羅、毘羯羅)とは別物になるので少し注意が必要です。

式神の場合の十二天将とは、騰虵 ・朱雀・六合・勾陳・青龍・貴人・天后・大陰・玄武・大裳・白虎・天空のことを指します。

ややこしいことに、「朱雀・青龍・玄武・白虎」は四神と称される有名な存在ですが、四神は陰陽道ではなく中国天文学(いわゆる風水)における天の四方の方角を司る霊獣であり、やはり十二天将とは別の存在になります。
東の青竜、南の朱雀、西の白虎、北の玄武、そして中央に黄竜(あるいは麒麟)を加えて五神とも称されます。

四神相応について

これら大地の四方の方角を司る四神の存在にふさわしい地勢や地相を「四神相応」といいます。中国の長安や日本の平安京などもこれに基づいて建設されるなど極めて重要なものとされますが、時代によって解釈が異なるなどの見方もあります。

ちなみに江戸城の位置についても、もちろん四神相応となります。広大な関東の地相の中であえて江戸を幕府の本拠地としたのは、先ほど説明したような背景に加え、家康の政治顧問に近い存在であった天海僧正が四神相応である場所を探した結果が江戸だったから、とされています。

徳川家康と門松

門松の竹の先端部の形状には、竹を真横に切った「寸胴(ずんどう)」と、斜めに切った「そぎ」という2種類があります。

もともとは全て「寸銅」だったのですが、戦国末期に徳川家康によって「そぎ」という形状が取り入れられました。その背景には、家康の生涯の中で最大の敗戦とされる「三方ケ原の戦い」が深く関わっていました。

  • 三方ケ原の戦い

家康と武田信玄が戦った「三方ケ原の戦い」において、家康の三河武士団は壊滅状態となり、浜松城へと撤退。当時戦国最強を誇った武田軍の実力はとにかく圧倒的で、このまま浜松城に攻め込まれては全員討ち死にするほかない、という状況にまで家康は追い込まれていました。

籠城戦をしようにも、残された兵力を考えれば敗北は必至。そこで苦肉の策として家康は、本来なら固く閉ざすはずの城門を開いて篝火を焚かせ、攻める側(この場合は武田軍)に“何か企みがあるのでは?”と疑わせることで突入を阻止する「空城の計」を用いることに。

その結果、三河武士団と武田軍は対峙したまま新年を迎えることとなりました。

  • 松を巡るやり取り

新年を迎えたある日、家康の元へ武田軍から一通の書状が届きました。そこに書かれていたのは「松枯れて 竹類(たけたぐい)なき 旦(あした)かな」という一句。意味としては、「松平(徳川の旧姓)が敗れ、武田が類なき勢いを得た元旦であることよ」というものです。

怒った家康側は「松枯れで 武田首(たけだくび)なき 旦(あした)かな」という、濁点を付け替えただけでまったく逆の意味となる一句を返送。

さらに武田家になぞらえて門松の竹を斜めに切ることで、「(三方ヶ原では大敗したが)次はお前達を斬るぞ」という意志を表現しました。

それ以来、家康は斜め切りした門松の竹を見ては「打倒武田」を誓うとともに、大敗した自分への戒めにしたと云われています。その風習が家臣にも広がり、やがて門松の竹は斜め切りしたものが一般的になったようです。

しめ縄

各家庭において、正月に迎える年神を祀るための依り代となるのがしめ縄です。こちらは神道における神祭具で、神域と現世を隔てる結界としての役割を持っているとされます。

起源は、天照大神が天岩戸から外に出たとき、二度と天岩戸に戻れないようにしめ縄で戸を塞いだことにあるとされています。神に対しても結界として有効であることからも明らかなように、しめ縄は強力な神祭具といえます。

天照大神とスサノオ

そもそも天照大神は太陽を神格化した神であり、皇室の祖神・日本民族の総氏神とされるほどの、いわば最高神の一柱ともいえる存在です。

それほどの存在である天照大神が天岩戸に引きこもった理由は、ずっと庇い続けてきた乱暴者の弟であるスサノオが、自身の統治領である高天原でも暴れてしまったことに対する精神的ショックのせいでした。
(天照大神、ツクヨミ、スサノオはイザナギから生まれた三貴子という姉弟関係にあります。)

太陽神である天照大神が隠れてしまったことで、高天原、そして葦原中国(日本のこと)は真っ暗となってしまい、さまざまな問題が発生してしまいます。

困った八百万の神々は作戦を練り、その結果として、かの有名な「天岩戸の伝説」が誕生することとなりました。

あらすじとしては、外で皆で楽しそうに騒ぐことで、気になった天照大神が様子を見ようと岩戸を少し開けたところを、力自慢のアメノタヂカラオが一気に岩戸を全開にして外に引きずり出す、というものです。

そのときに重要な役割を果たしたのが、しめ縄となるわけです。

尚、この事件の原因をつくってしまったスサノオは高天原を追放され、出雲へと降ります。そこからヤマタノオロチを退治するなどの英雄的な活躍を見せるようになります。

ちなみに徳川家康は死後、日光東照宮に東照大権現として奉られることとなりましたが、一説によれば「東照宮」とは「東の天照大神の宮」という意味だと言われています。

七草粥

七草粥とは、春の七草であるセリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロの7種を叩いて細かくし、1月7日の朝食としてお粥に入れて食べるという風習です。

中国から伝来し、平安中期頃に始まったとされますが、定着したのは江戸時代頃。幕府では公式行事として、将軍以下全ての武士が七草粥を食べる儀礼をおこなっていたそうです。

地方によって気候や土壌の違いがあるため、七草のうちいくつかのみの使用とする場合や、そもそも食材が異なるという場合などがあるようです。

松の内と鏡開き

「松の内」とは正月の松飾り(門松)を飾っておく期間、「鏡開き」とは、正月に神や仏に供えた鏡餅をおろし、雑煮や汁粉に入れて食べることを指します。
もともとは1月15日までを松の内とし、1月20日に鏡開きをおこなう、という日程が正式とされていました。

しかし、徳川家光が1651年(慶安4年)に亡くなったことから20日は「忌み日」とされ、慶事などに用いることを避けるようになりました。

それに伴い、鏡開きは20日ではなく11日におこなわれるようになったのですが、「松の内に鏡開きをやるというのはおかしい」という声が高まり、結果として松の内のほうが7日まで短縮されることとなったようです。
ただし、この風習は徳川幕府のお膝元である関東圏にとどまったようで、関西圏では現在も15日までを松の内としています。

まとめ

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いかがでしたでしょうか。

皆さま今年もLIGブログをご愛読いただきまして、誠にありがとうございました。
来年も何卒宜しくお願い申し上げます。

 

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