こんにちは! エディターのさえりです。
突然ですが、みなさんはこの歌をご存知でしょうか?
「私以外〜私じゃないの〜。当たり前だけどね〜」
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って、ちょっとまって。
本当に、わたし以外わたしじゃないの……? しかもそれって当たり前なの?
もしかしたらわたし以外もわたしの可能性もあるのでは? わたし以外もわたしだったとしたら?
たとえばこの目の前にあるティッシュ。たとえばこの目の前にあるコップ。もしかしたら「明日から、これもおまえだ」って言われることもあるのでは? もしそういう世界になったら、もっと世の中を自分ごととして捉えられるかもしれないよね……。「そのティッシュ、わたしなんで大事にしてくださいね」っていう世界になれば、それってハッピーじゃない? ってことはわたし以外わたしじゃないほうがよかったり……?
……一般常識でいえば、わたし以外はわたしではないことは当たり前なのですが、考えていると、わたし以外わたしじゃないことが本当にわからない限りは安心して暮らせない、という気分になってきました。
東大の先生に聞きに行ってみよう
わからないので、詳しい人に聞いてみることに。
おそらくこの場合のジャンルは「哲学」というのでしょうか。東大という最高峰の場所にいる、哲学教授。すごく気難しそうなイメージしかない。

こちらが今回わたしの疑問に答えてくださった梶谷 真司(かじたに しんじ)先生。
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人物紹介:さえり
エディター。寝ているとき以外はいつも眠い。他人の妊娠ブログを読むのが好きな独身。よくツイートをしている。Twitter:@N908Sa |
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人物紹介:梶谷 真司先生
東京大学 総合文化研究科 教授。専門は哲学、比較文化、医学史。対話型の哲学を通じ、共に問い、共に考えることで、誰もが自ら「哲学する(philosophize)」場をつくっている、スゴイ先生。東京大学の駒場キャンパスにある「共生のための国際哲学研究センター(UTCP)」のセンター長でもある。 |
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早速質問してみた

「先生。早速なんですが……、本当にわたし以外わたしじゃないんでしょうか?」
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「どうおもう?」
いや……。わからないんです
それを先生に聞きにきたんですけど……
ぼくは答えなんか知らないよ
哲学者なのに!?
哲学者は考えるのが仕事だからね
さあ、考えてみよう
わたし以外がわたしの場合ってたとえばどんな時があると思う?
(むずいのきた)
うーん。たとえば、わたしが大自然のなかでたった一人で生きていたとしたら、『わたし』と『わたし』じゃないものの区別をつける必要がなくなって、自然と一体になった感覚になるんじゃないかなって思うんです。
天気が悪かったとして、その天気によって気分がすごく悪くなったとしますよね。天気がわるいと具合がわるい。それってもはや天気も『わたし』とも言えるかもしれないなって……
なるほどね。他にもある?
そのほかにも、たとえばわたしたちは言葉を後天的に得ているので、『服』とかそういう言葉がわかりますけど、もし『服』っていう言葉がなかったとしたら、いつも同じ服をきているひとをみたときに、その服をもふくめて『わたし』になるかもしれないな、とか
ふむ。じゃあなんで、今の世界だと『わたし』以外『わたし』じゃないんでしょうか
天気も『わたし』、この服も『わたし』、っていう世界だと混乱してしまうし、区別がつかなくなるから『言葉』ができて、つまり社会生活を営む上で『わたし以外わたしじゃない』っていう風に区別しなきゃいけなかったのかもしれない、とか……?
なるほど

おもしろいですね〜
いや、面白がってないで先生の答えも教えてくださいよ
答えなんて出さなくていいからとりあえず考えてみようよ
そもそも『わたし』というものの境界を、どこに置いていくかっていう問題がありますよね。『わたし』ってなんですか?
う〜ん
わたしの思う『わたし』は、自分の意思で動かせるところまでかな? って……。手とか顔とかって自分の意思で動かせるし。
あ、でも、たとえば内臓とかってわたしの意思で動かせないから……ってことは内臓は『わたし』じゃないのか? ということになりますよね……
そう思うと、『わたし』は脳とか気持ちとかそういうところなのかなぁとか………

脳とか、気持ち、ですか。記憶はどうですか?
記憶も『わたし』だと思います
哲学的にいえば『自己同一性』って言葉があるんですけどね
>自己同一性?
要は、昨日の自分と今日の自分がなぜ同じと言えるのか、ということなんです
記憶が連続しているからそう言えるのかな?
じゃあもしも、記憶がなくなったらその人はその人じゃなくなるってことになると思いますか?
む、むずかしい

今日読んだ新聞記事で覚えているものは『わたし』ですか?
『わたし』じゃない気がします……
でも、たとえば昔からの母親との記憶とか、ずっと暮らしてきた記憶って、『わたし』だとおもわない?
たしかに……。でも内容自体は『わたし』じゃなくて、内容を自分なりに解釈したら自分になるのかなって気がします。自分なりに意味があるものになれば、『わたし』というか
なるほど……。じゃあ、情報じゃなくて感情はどうですか?
感情は『わたし』なような……
『感情をもつ』と『ものをもつ』、どう違うんでしょうか?
うーん。感情は変化かなって気がします。ものをもつっていうのは、手放すこともできるし置いたりすることもできる。でも感情は、病気みたいなかんじと一緒のイメージです。そんなつもりなくても頭が痛い、と同じかんじでしょうか……
じゃあ……頭痛、は『わたし』ですか?
うーん? 頭痛はわたしじゃなくて侵入者?
なるほど〜。通常じゃない、というかんじでしょうか
痛みだから侵入者なの? 気持ちがいい感覚とかも侵入者ですか?
それも侵入者かな? 通常ではない、という感覚。気持ちがいいのもわるいのも、「異変」というか

じゃあ平常はどういう状態なんですか?
特に、からだを意識しない状態? そこに感覚がいかない状態かな?
そういうときがさえりさんにとって普通なのか。でもさ、平常って人によってちがうよね
たとえば障害があってからだがわるかったとしたら、それがその人にとって平常になるんだと思うんだよ。いつも体調悪い人だったら、もはやそれが通常かもしれない
たとえばさえりさんの頭が10ヶ月ずっと痛かったとしたら、それが通常になると思いますか?
うーん、わからないですけど、通常じゃないって思いそうです。本来の自分はこれではない、と思っていそうというか
なるほど。実はぼくはぎっくり腰を去年やってしまってね。最初はやだなって思ってたけどもう去年からずっとなおらないから、腰痛のじぶんが普通になってきて、もうあまり気にならなくなってきたんだよね。痛い状態がもはや平常というか。
そういう意味では、腰痛もふくめて『わたし』、みたいな
たしかに……。そう考えると、“受け入れるかどうか”が鍵かもしれないですね……
というと?
受け入れることができたときに、『わたし』が『わたし』になるというか

いいね〜
たしかに、鬱とか、そういった精神的な病を抱えている人とかって、かつて元気だった『わたし』と、今元気じゃない『わたし』がいて、その二つの状態をそのまま受け入れられないから辛いんだと思うんだよね
自分のイメージってあるじゃないですか。自分はこういう人間だっていう。でもその通りじゃないことのほうが現実に多いから。そうすると現実と理想がズレて、ズレがはげしいとつらくなっていく。でも、内心両方『わたし』だと分かっているから辛いんだよね
いまの『わたし』も『わたし』だから受け入れなきゃ、でも受け入れられない。
そのふたつの『わたし』がいて、それでいて両方『わたし』だから“苦しい”……
そっか……わかった!

おっ?
こんなのわたしじゃない気がする! っていつまでも受け入れられないときは、わたし自身もわたしじゃない。
でも、いまの自分を受け入れたら『わたし』が『わたし』になる!
つまり『わたし』以外は『わたし』じゃなくなる。これだ!
いい結論だね〜。それが今日の結論だね
…先生全然教えてくれなかったじゃないですか
哲学者が教えられるのは『考える』ってことだけなんだよね
ズルイかもしれないけど笑

なにか結論めいたもの
問:「わたし以外わたしじゃないのか?」

答:「どう思う?」
さいごに
わたしはすっきりしたんですけど、結論がひとつじゃないなんて納得できないという人もいると思うんですよね……
さえりさんみたいに考えて、自分なりの結論を見つければいいんだよ。自分でつまずいて、自分で考えたことしか、結局は理解できないからね。
もしそれでも「答えが見つからない! つまらない!」と思うようだったら、それはその人がつまらない人間なんじゃないですかね(笑)

ちなみに梶谷先生曰く「モヤっとしたりわからなくなったりすることは哲学をする上でとてもいいこと。だってそれは『考えるべきことができた』ということだから」とのこと。
みなさんも自分なりに考えてみてくださいね。わたし以外のみなさん、それではまたね〜!