こんにちは、外部ライターのズイショです。
軽い気持ちで親指の逆剥けをめくると思いの外べろんと剥がれてやたらに濃い朱の血が滲む季節になりましたね。今回は累計でそんな逆剥けの二万倍リットルくらいの血が流れる漫画『斬り介とジョニー四百九十九人斬り』を紹介させていただきます。
天才・榎本俊二が描く圧倒的リアリティ『斬り介とジョニー四百九十九人斬り』
斬り介とジョニー四百九十九人斬り (KCデラックス アフタヌーン)
君は榎本俊二を知っているか!?
漫画界の極北で燦然と輝くどう考えたってどうかしてる人、それが榎本俊二。
俺たちが生きるこの世界は現実だ、たしかに現実だが果たしてそこにリアリティはあるのか?
頭の中ひっくり返してよくよく考えてみろ、この世界はリアルかもしれないがどうしたってリアリティがない。本当のリアリティは頭の中にあって、頭の中にしかなくて、そしてこの現実はそのリアリティを全く反映していない。
あれもこれも本当はこんなはずじゃなかったんだ。
例えば河川敷でエロ本を拾った中学生が自転車を立ち漕ぎして全速力で自宅まで駆ける。
きっと中学生の脳内イメージでは彼は弾丸よりも速く風を切り裂き砂煙を巻き上げながら目をギラギラと輝かせて爆走しているはずだ、それがリアリティってやつさ。
しかし現実はどうだ?
そこに居るのはそわそわキョドキョドしながらゆらゆらとペダルを漕ぐただのイケてない中学生ではないか。
これこそがリアリティと現実の乖離。
なんでだよ、なんで中学生は入道雲を二つに割らんばかりの勢いで走ってるはずなのに俺の眼前に立ち上がる現実では道端に咲くタンポポ一つも靡いちゃいないんだ、こんなの絶対おかしいよ!
そうして俺はいつだってそんなリアリティに乏しいこの世界に四六時中イライラしながらムシャクシャと生きているのだ。
俺が見たいのはこんなつまらない現実なんかじゃない、現実離れした圧倒的なリアリティだ。
本当はみんな柴田恭兵みたいに窓が開いてるところに足から飛び込んで車に乗り込みたいはずなんだ、いちいちドアを開けなくちゃならない現実なんてつまらなすぎるから滅びてしまえ。
そんな現実への鬱憤をこれでもかと晴らしてくれるのが榎本俊二であり、『斬り介とジョニー四百九十九人斬り』なのだ!
悪党にさらわれた村娘、そしてひょんなことから彼女の奪還を依頼された斬り介とジョニー。二人の最強剣士が舞い踊る、血のサーカスが始まった!
引用:講談社コミックプラス
これは出版社による紹介から引用したあらすじだけど、本当にこれですべて。これ以上でも以下でもない。
タイトルの通り、斬り介とジョニーが四百九十九人の悪党を斬って斬って斬りまくる。
台詞らしい台詞もなければ必殺技もなければピンチらしいピンチもない。
ストーリーもなければ死の重みもなければ悲喜こもごももない。
連続する大ゴマと大胆な構図が生み出す疾走感と迫力だけで約100ページにも渡る殺陣シーンを一息に駆け抜ける。
こんなの現実にありえっこないよ。
そうだ、ありえっこない。
しかし俺はコイツを知っている。
今まで見たことはなかったけれど俺はこの光景をずっと前から知っている。
物理法則がどうとかそんなの関係なく、確かに俺の頭の中では人の首はこんな風にスパスパと斬れる。
起承転結がどうとかそんなの関係なく、俺の知ってるヒーローは悪党どもをこんな風にバッタバタと薙ぎ倒す。
みみっちい現実なんかどこ吹く風、負ける気配が微塵もしなさすぎる侍二人が、一振り一太刀見開き一コマで両手では足らない人数の首をバッサバッサと刎ねまくる。
最早「紙屑のように」とか「豆腐のように」なんて形容詞すら生ぬるい。
現実の紙屑なんかまるで比にならないくらいの軽さで、豆腐よりも遥かにすんなりと真っ二つになって、ただただ人が死んでいく。
これがリアリティじゃなくて一体なんだっていうんだ!
まとめ
リアリティとは決してリアルで写実的な描写からのみ生まれるものではありません。
現実から出鱈目に離れたところでこそ産声をあげるリアリティというものも、きっとまた存在するのでしょう。
小説には小説でしか辿り着けないリアリティが、映画には映画でしか辿り着けないリアリティが、そして漫画には漫画でしか辿り着けないリアリティが。
そんなわけで榎本俊二という漫画家の描くリアリティのひとつの到達点、このレビューをきっかけにぜひ目撃して頂ければ幸いでございます。以上です。
ライター紹介:ズイショ 貴方の寿司に僕の寿司をぶつけたい憎らしい白い犬。白い。 ブログ:「←ズイショ→」 |