こんにちは。ライターの紳さん(@shinsan_lig)です。
台東区浅草にある浅草演芸ホールに来ました。
ところで、皆さんは落語の寄席(よせ)に行ったことはありますか?
浅草演芸ホールは浅草六区のドンキホーテのすぐ隣にある演芸場です。
ここは落語が365日楽しめるという、定席と呼ばれる寄席。盆も正月も休まず営業を続けているんですよ! 知っていましたか?
東京都内に定席はたったの4つしかないそうです。
※浅草演芸ホール、鈴本演芸場(上野)、新宿末廣亭、池袋演芸場の4つ。
ちなみに、「噺(話)の最後に落ち(オチ)をつける」ということから落語と呼ばれるらしいです。
今では日本を代表する大衆娯楽の一つとして知られていますよね。
今回のGOGO台東区では、浅草を代表する文化である「落語」や「お笑い」がどのようにして生まれ、人々の間に定着していったのかを取材したいと思います!
浅草演芸ホールの中を見学
まずは建物の中を取材しました。入ってすぐに売店を発見。
ここではお菓子や飲み物が売っているのですが、普通にビールなどのお酒も売っているんです。
「へぇ〜。 ビールとか飲めるんだ〜」
とか感心していたところに・・・
超カワイイ猫を発見!!!
実はこの猫、「チケット売り場の看板猫」として浅草界隈では有名な猫なんだとか。
「ジロリ」とした目つきのため、そのままジロリという名前が付けられています。
大変人懐っこく、カワイイの一言。
このまま取材を放棄してジロリちゃんと遊び倒したいところですが、目的を忘れてはいけませんよね。
というわけで、ドーン!!!
寄席が行われるホールの中に入りました。
「あ〜!! 笑点で見たことがある〜!!」と大興奮していたのですが、ここでは笑点の収録は一切行われないそうです。そういう雰囲気は出てるんですけどね。
写真を撮るために開演前に入れてもらったので、まだお客さんは誰もいません。
僕も初めて知ったのですが、この定席寄席というのは「好きなタイミングで来て、好きな時に帰ってよい」というシステムなのだそう。
最初にお金を払えば閉場するまで1日中居ても良いんですね!
※チケット料金、公演内容、興行時間については浅草演芸ホールのホームページをご参考ください。
大人2,800円の料金で1日楽しめるのだから、リーズナブルな予感。
ちなみに2階席もあります。 上から見る景色はこんな感じ。
さて、取材をしている内に、実は同じ建物の4階に東洋館という別の演芸場があることを知りました。
正式名称は「浅草フランス座演芸場東洋館」です。
…フランス座?
さきほどの浅草演芸ホールは主に落語が楽しめる場所でしたが、こちらの東洋館では「色物(いろもの)」と呼ばれる演芸がメインとなります。
色物とは漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸、ものまねなど、落語以外の演芸を指す言葉。看板に掲示されている木札の文字の色が落語の演目は黒文字で書かれていたのに対し、それ以外は色文字(主に赤色)で書かれたことからそう呼ばれるようになったそうです。
(※諸説あり)
中はザ・お笑いという感じでした。本当に。
ライターを名乗っておきながら、この語彙の少なさと表現力の乏しさには自分でもビックリしています。
さて、こちらの浅草フランス座演芸場東洋館。
こんなにサラッと紹介しておきながら、実はお笑いの聖地として超有名な場所だということをご存知でしょうか?
僕はマジで知りませんでした。
よくテレビで自ら「浅草出身の芸人」と言っているナイツさんもこちらの舞台に上がっていますが、それ以前には
渥美清さん、東八郎さん、萩本欽一さん、ビートたけしさん
などなど、そうそうたるビッグネームがこちらの演芸場から輩出されております。
僕はお笑いの世界に疎い上に物見遊山で取材に来てしまったため、本来ならもっと撮影すべき場所がたくさんあるということを後から知ることになるのです。
それにしてもなぜ、この浅草にある演芸場がお笑いの聖地になったのでしょうか?
浅草演芸ホールと東洋館を運営している東洋興業株式会社の代表取締役、松倉由幸さんにお話を伺うことにしました。
元々はストリップ劇場だった。
ーなぜ、浅草に演芸場を開設したのでしょうか?
実は、最初から演芸場だったわけではありません。元々は「フランス座」というストリップ劇場だったんですよ。
ーえっ!? ストリップ劇場というと?
女性の踊り子がヌードショーを行う劇場のことです。
歴史から説明しますと、1884年に明治政府が浅草寺境内の土地を「浅草公園」と命名し、区画整理を行ったんです。その際、浅草六区という場所に見世物小屋とかが集中して移転し、歓楽街を形成しました。浅草が日本最大の歓楽街となる歴史の始まりです。
そして1907年、その歓楽街に三友館という映画館が建てられたんですね。オペラの上演なども行い、大盛況だったそうです。ところが、第二次世界大戦が開戦し、1944年には東京大空襲という焼夷弾をつかった戦略爆撃が始まりました。
これに対抗するため、火災の被害を抑えるべく強制疎開(建物の取り壊し)をしたんです。結果的に浅草は焼け野原になるわけですが。
ー「お笑い」について聞こうとしたら、戦争の話に…
実際、そういう歴史ですからね。
さて、翌年の1945年(昭和20年)に終戦し、復興を進めながら人々の心にわずかながら余裕が生まれてきます。そこで「浅草に再び歓楽街をつくろう!」という動きが始まるんですね。
私の祖父は興行の仕事が好きで、縁もあってか、かつて三友館が存在した土地を譲り受けたのです。色々と考えた結果、禁欲的な生活をしてきた庶民にエンターテイメントを与えるという志のもと、1951年にフランス座というストリップ劇場をつくりました。
やはり、多くの庶民にとって女性の裸というのは分かりやすい娯楽でありましたから、大きな需要があったんですね。
ーすごい話ですね。そこから、なぜ「お笑い」が?
ヌードショーだけをずっとやっていると、観客もだんだん飽きてくると思ったんでしょうね。幕間といって、ヌードショーの合間にいわゆる「コント」的な笑いのショーを取り入れるようにしたんです。
この幕間のコントが大変評判がよろしくて、深見千三郎、渥美清、東八郎、萩本欽一といったスターが生まれるきっかけとなったんです。
とうとう、芸人さん目当てに来るお客さんも増えてきて。それなら「お笑い専門の小屋を建てましょう」ということで、建て増しをして4階に東洋劇場をつくりました。これが浅草の「お笑い文化」のルーツと言えるでしょう。
ーめちゃくちゃ面白い話じゃないですか! 偉大なる芸人の方々がストリップ劇場の幕間として活躍していた時代だったんですね。
本当にすごい時代でしたよね。ところが、それも長くは続きませんでした。
1964年に東京オリンピックが開催され、これがきっかけで世の中にテレビが急速に普及したんです。テレビのソフトとして芸人が必要とされる時代になり、高額のギャラを提示され、渥美清といった劇場のスター達が次々と引き抜かれていきました。
浅草のスター達が日本のスターへと変わっていったわけです。
ーテレビにスターを引き抜かれて… 東洋劇場はどうなったのですか?
当然、芸人さんがいなくなれば劇場は行き詰まりますよね。
そこで、苦肉の策として考案されたのが「落語の寄席」だったんです。これが浅草演芸ホールの始まりということになります。1階は変わらずストリップ劇場、4階が落語という状況でした。
最初は浅草に落語のファンはいませんでした。しかし、落語家達の努力の甲斐もあって少しづつ落語の人気が出てきます。ついには1階と4階の小屋が入れ替わることになるんです。
そして、ビートたけしがエレベーターボーイとしてフランス座に入ってくるのが1972年のこと。深見千三郎の弟子となり、ストリップの幕間のコントをしたり、タップダンスをしたりしながら芸を磨きました。
ー落語すごい! それと、たけしさんも幕間を経験しているのですね。
それからしばらくは良い時代が続きますが、だんだん世の中に刺激的なものが溢れてきます。上品な踊りが中心のストリップでは、客が呼べなくなってくるんですね。
そして2000年、ついに需要も少なくなりストリップ興行を止めることになりました。フランス座がなくなり、4階を改装して今度は「色物中心の寄席」として浅草フランス座演芸場東洋館が誕生し、現在に至ります。
ーなるほど。2000年ってことは、意外と最近までストリップをやっていたんですね。
ロック座とか、浅草には今でも残っているストリップ劇場がありますね。
ー現在、落語はどういった方に人気があるんですか?
平日はご年配のお客さんがほとんどですが、休日になると学生さんとか、若いカップルさんが多く来られます。イケメンの落語家とかにはファンもつきますし、意外と若い人達に人気のコンテンツなんですよ。
落語は少し難しい印象があるかもしれませんが、実際はそんなことありません。歌舞伎、能、狂言のように難しい言葉は使いませんし、事前に歴史の勉強をしないと話がわからないといったこともないのです。
ーなるほど。落語のイメージが変わりました。落語の魅力とはどんなところにありますか?
一つの噺(話)が15分ほどで、テレビで見るような芸とも違う。たった一人の落語家が多種多様な人物を演じ、扇子が色々なもの変化して、様々な世界をつくりだす。
真打登場ともなると「待ってました!」と観客から声援が飛び、芸人と会場のお客さんが一体となり、すごく臨場感に溢れたエンターテイメントが提供されるんです。これは閉鎖された空間でないと味わえない感覚だと思います。
ー思えば、座布団一枚で15分もの間、人前に出て笑わせるってすごい技術ですよね。
落語家って実は人気の職業なんです。厳しい世界ですが、入門志願者は大変多い。
ちなみに、東京と関西は「お笑い」のビジネスのやり方が違うんですよ。関西は吉本興業とか松竹芸能のように、会社が芸人さんを抱えることが多いです。
一方、東京は小屋は小屋だけで経営を行い、そこに個人事業主である芸人さんを呼びます。なので、ウチの舞台に吉本とか松竹の芸人さんが出演するということはないんです。
ーえっ!? そうなんですか。フリーランスの芸人さんが中心なんですね。どうやって呼ぶのですか?
落語協会、落語芸術協会といった組織と協力し、出演のオファーを出させていただいてます。演目も協会と相談して決めたりするんです。
ちなみに東京の落語は4つの協会、団体などに分かれていまして、浅草演芸ホールには落語協会、落語芸術協会に加盟している落語家しか出演できません。
ナイツさんとかは落語芸術協会に所属しながら、マセキ芸能社にも所属していますが。
ーきっと、色々あるんですね。最後にLIGブログ読者にメッセージがあればお願いします!
落語は年齢が関係なく、家族のみんなが楽しめる数少ない娯楽の一つだと思っています。
浅草にはお寺もあるし、美味しい食事処もたくさんある。街全体を楽しみながら、浅草の魅力の一つとして演芸場にも足を運んでいただければと思います。
テレビでは味わえない「東京のお笑い」に触れてみてください!
ー僕も是非、今度は落語を楽しみに行きたいと思います! 松倉さん、本日は貴重なお話、本当にありがとうございました!
まとめ
台東区の魅力を紹介する、GOGO台東区シリーズ。今回は浅草のお笑い文化について触れましたが、いかがでしたか。
明治時代の区画整理によって生まれた浅草の歓楽街。そこにつくられた一つの娯楽施設が、歴史的な背景によって映画館、ストリップ劇場、演芸場と変遷していく様子は非常に興味深く、面白いストーリーがありました。
台東区にはまだまだ僕が知らない魅力がたくさんありそうです! とりあえず落語は面白そうなので、行ってみたいですね!
以上、紳さんでした。 それではまた。