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2016.05.14
第12話
調べてみた

歴代将軍の墓ってどこにある?徳川家の信仰と埋葬の謎を調べてたら夜が明けた。

ゴウ

こんにちは、LIGのゴウです。

突然ですが皆様、歴代徳川将軍のお墓がどこにあるかご存知ですか?

 

 

ぱっと答えられた人は凄いと思いますが、正解は日光東照宮、上野の寛永寺、芝の増上寺、そして谷中霊園の4カ所です。ではなぜ歴代将軍は4カ所バラバラに埋葬されているのか。そもそも徳川家が信仰している宗教ってなんなのか?その謎を調べてみると、それぞれの宗教的、風水的、または政治的な狙いなどが見えてきました。

今回は、そんな江戸の街に秘められた徳川家の思惑と歴史ロマンについて書いてみたいと思います。

※かなりの長文です\(^o^)/

そもそも菩提寺とは

みなさんは信仰している宗教はありますか?そして自分の先祖が眠るお墓がどこにあるか分かりますか?

仏教を信仰している場合、先祖代々のお墓があるお寺のことを菩提寺(ぼだいじ)と呼びます。簡単に言うと、我が家は昔から仏教の◯◯宗を信仰していて、どこそこのお寺さんにお世話になっているから、我が家の人間が亡くなったらこのお寺にお世話になるよ、という考え方です。

なので、改宗などをしないかぎりは基本的に菩提寺にお世話になります。

※我が家は無信心なので、先祖代々が眠っている墓がバラバラで適当な家系です。そういう家ももちろんあります。

 

さて、そこで徳川家です。

徳川家ほどの名家ですから、もちろん信仰している宗教があり、菩提寺があります。にも関わらずなぜ歴代15代将軍は4カ所に分かれて埋葬されているのか。そこを紐解いていきたいと思います。

それぞれが埋葬された場所について

まず、それぞれの将軍が埋葬された場所について見ていきましょう。

  1. 徳川家康 日光東照宮
  2. 徳川秀忠 増上寺
  3. 徳川家光 日光東照宮(輪王寺)
  4. 徳川家綱 寛永寺
  5. 徳川綱吉 寛永寺
  6. 徳川家宣 増上寺
  7. 徳川家継 増上寺
  8. 徳川吉宗 寛永寺
  9. 徳川家重 増上寺
  10. 徳川家治 寛永寺
  11. 徳川家斉 寛永寺
  12. 徳川家慶 増上寺
  13. 徳川家定 寛永寺
  14. 徳川家茂 増上寺
  15. 徳川慶喜 谷中霊園

 

まず初代家康と三代家光だけは栃木県日光にある日光東照宮(世界遺産としても有名ですね)に埋葬されています。家光の場合は正確には日光東照宮と同じ敷地内にある輪王寺というお寺に祀られているのですが、いずれにせよ日光です。

さて、次に最後の将軍慶喜だけは東京都台東区にある谷中霊園に葬られています。

そして、それ以外の将軍は東京都台東区上野にある寛永寺、そして港区芝にある増上寺(東京タワーの近くにある大きなお寺)となっています。

場所で見るとこんな感じ。

ここで注目してもらいたいのは、徳川家の菩提寺である増上寺は江戸城(皇居)から見て南西の方角に、寛永寺は北東の方角に作られているということ。これは陰陽道で言う鬼門の艮(うしとら)の方角 = 北東、そしてその反対側である裏鬼門の坤(ひつじさる)の方角 = 南西に徳川家にとって重要なお寺を配置していると考えられます。

ただ、改めてGoogle Mapで見てみると正確に北東、南西の方角には無いんですが、これを誤差の範囲と考えるのが良いのか、それとも鬼門云々という考え方が間違っているのか、ちょっと判断出来なかったのですが、いずれにせよ江戸の街が風水を元に作られているというのは間違いないと思うので、何かしらの意味は持たせているのでしょう。

ちなみに谷中霊園は上野寛永寺のすぐ脇にあり、明治時代に政府によって作られた霊園です。

なぜ、家康は日光に祀られたのか

元々徳川家というのは浄土宗を信仰していました。そして芝の増上寺というのは浄土宗のお寺です。

なので、徳川家康は通常で考えれば菩提寺である増上寺に埋葬されるのが普通です。しかし家康は遺言で自分が死んだら「静岡にある久能山に葬ってくれ。そして一年後に日光に移してくれ」という旨の遺言を残したそうです。

まず縁ある静岡に葬るというのはわかります。ですが、一年後に日光に移すというのはどういう意図があったのでしょうか。

 

こちらがそれぞれの位置関係を示した地図なのですが、静岡の久能山から日光に線を引くと、ちょうどその途中に富士山があります。富士山は古来より「不死」の象徴として信仰を集めてきました。その不死の意味を込めて家康の魂を久能山から富士山(不死)を経由して日光に祀る事で神格化しようとした狙いが見て取れます。

更に日光は江戸城から見てほぼ真北の方角に位置します。

これは北極星信仰が関係していると考えられます。古来より北極星は天上にあって惑わない星、移動しない星として、また仏教では北極星を「妙見菩薩」として信仰の対象としてきました。つまり、江戸城から日光を通り、北極星へと通じる道も表しているという事です。

うーん、なんだかぞくぞくしてきますな。

日光東照宮とは何なのか

宮というのは「八幡宮」や「天満宮」というように神社の事です。つまり家康は菩提寺のある浄土宗の増上寺ではなく、神社に埋葬された、という事です。これには一体どんな意味があったのでしょうか。それを理解するにはまず「仏教」と「神道(しんとう)」について理解が必要です。

仏教というのはご存知お釈迦様が2500年ほど前にインドで悟りを開かれた事を起源とする宗教です。対して神道というのは日本に古来より根付いていた、山や川や草木に神様が宿っているという考え(八百万の神々)をベースとした宗教です。仏教にとっての宗教施設は「寺」。神道におけるそれは「神社」となります。信仰の対象は仏教は「仏」で、神道は「神」です。

日本において仏教と神道は歴史上混ざり合っていて曖昧としている所もあるので理解しにくいのですが、このように明確な違いがあります。

ここまでを理解すると、家康の狙い。なぜ寺に埋葬するのではなく、わざわざ静岡を経由して富士山を通り、日光の神社に祀るように指示したのか。その狙いが見えてきます。

つまり、家康は江戸幕府を作った天下人として、死後において「神」となりたかった、というわけです。

自身の威光を死後も保ち、江戸幕府繁栄にも繋がるようにと考えて、恐らく自身を神格化する必要があったのでしょう。それにしても、自分の死後、埋葬の手はずだけでなく、神格化への意図を含めてこのように設計しているとは、なんともぞっとする程に深く考えられています。古来よりこのような宗教施設は方位学の考えに基づいて設計されているとは言いますが、正確な地図もない時代によくここまで考えたものだなと。

 

ちなみに、三代家光が祀られているのは東照宮と同じ敷地内の輪王寺。これは天台宗のお寺で、家光はそこに祀られています。これについては、家光は家康の事を大変尊敬しており、そこから本人の希望もあって日光に埋葬されたようです。

増上寺と寛永寺。2つの菩提寺の謎

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さて、LIGの上野オフィスのすぐ近くにある寛永寺にやってきました。

寛永寺には4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人が。対する芝の増上寺には2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人が埋葬されています。

家康は神格化の為、日光に祀られた。家光は家康を慕っていたので同じく日光の輪王寺に埋葬された。ではそれ以外の12人の将軍たちはなぜ寛永寺と増上寺に分かれて埋葬されているのでしょうか。

そもそも徳川家の菩提寺は浄土宗の増上寺です。

それを考えると増上寺に埋葬するのが普通で、2代将軍の秀忠は現に増上寺に埋葬されています。では、3代目の家光の時に何が起きたのかというと、ここには「天海」という偉いお坊さんが関係してきます。

 

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南光坊天海は天台宗の僧で、家康の側近として幕府に深く関わった事で知られています。そして家康、秀忠、家光はこの天海が所属する天台宗に帰依していたのですが、徳川家自体は浄土宗に所属していると。(ちょっと複雑ですね)

そしてこの天海が「江戸にごっつい天台宗の寺を作らせてくれへんか」と希望します。※セリフはイメージです。

それを受けて秀忠が現在の上野公園のあたりの土地を与えます。もちろんその土地には大名さまが住んでいたんですが、「お前らちょっとどいてくれ」という具合で。それぐらいの圧倒的権力だったわけですね。

そして3代家光の時代の寛永2年(1625年)、その土地に天台宗の寺を建立します。建てられた元号から取って「寛永寺」と名付けられたその寺は、徳川家の祈祷寺として機能していきます。

 

さて整理すると、徳川家は元々浄土宗だったのですが、家康、秀忠、家光は天台宗に帰依していました。しかし家康は死後神格化する為に日光に祀られ、2代秀忠は天台宗に帰依していたが、徳川の菩提寺である浄土宗の増上寺に埋葬された。3代家光は深く天台宗に帰依していたので寛永寺を作り、法要を寛永寺で行った後、日光へと移され天台宗のお寺、輪王寺へと埋葬されたというわけです。

さて、この家光による寛永寺建立、天台宗への帰依の流れを受けて、4代家綱、5代綱吉は寛永寺に埋葬されます。つまり、これにより寛永寺は正式に徳川家の菩提寺となったわけです。これに怒ったのが増上寺。そりゃそうです。徳川家の菩提寺としてこれまでやってきたのに、おいおいそりゃ無いだろ、と。当然文句を言ってくる訳です。どないなっとんねん、と。

で、なんやかんやあって、それじゃあ交代に埋葬しましょう。増上寺も寛永寺も、どっちも徳川の菩提寺って事でいいじゃないっすか。と。

そういう感じで決着が着いたので、その後14代家茂までは交互に両寺に埋葬されたと。こういう訳です。

何故、慶喜は谷中霊園に埋葬されたのか

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続いてやってきたのは上野、谷中霊園。

最後の将軍、徳川慶喜だけ何故かここ谷中霊園に埋葬されているんです。さて、何故なのでしょうか。

 

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こちらが、徳川慶喜公の墓所。

鬱蒼と木が生い茂り、頑丈そうな鉄格子でしっかりと囲われていて、門には徳川家の家紋である「三つ葉葵」が見てとれます。

この門は滅多な事では開くことはなく、中に入るには管理者である東京都、台東区、谷中霊園、ご遺族の許可が必要です。そして年に数回、都が主体となって墓地内の清掃を行うそうです。

 

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向かって左側には小さな扉がありました。

ご遺族がお参りに来る時は、正門からでなくここから入られるようです。

 

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向かって左側が慶喜公、右側が正室の美賀子の墓。

さて、この墓所には慶喜、美賀子をはじめ、慶喜の側室の墓や、23人いた子供の中で幼くして亡くなってしまった子たちの墓、また家督を継いだ7男慶久とその妻の墓、その子供の墓などが並んでいます。墓だらけ。

また、面白い事に正面の門から見た時に、ひとつだけ目視できない墓があります。

 

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それがこちら。

 

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ひっそりと、一番小さく影に隠れているこの小さな墓は、一色須賀(いっしきすが)という側室の墓。

この須賀という女性は、あまり情報が無いのですが調べてみると大変面白く、生涯を通じて慶喜に仕え絶大な信頼を得ていた女性のようです。慶喜との間に子はいなかったようですが、「慶喜様の御一生は、お蚕ぐるみにおさせ申しあげる」と言って、慶喜が身に付ける下着や布団などを全て絹で縫い上げ、89歳で大往生したそうです。

その彼女の墓が、正面から見えないながらも慶喜の墓の傍らでひっそりと見守るように配置されている事に、なんとも奥ゆかしさと、甲斐甲斐しさを感じます。

 

さて、ここまで見て何か気になる事がありませんでしょうか。

 

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そう、このお墓の形です。

このあまり見慣れないお墓の形にこそ、慶喜が何故この谷中霊園に埋葬されたのかの答えがあります。次にこちらのお墓を御覧ください。

 

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これは誰のお墓か分かりますでしょうか。

 

 

これは、東京都八王子市にある昭和天皇のお墓です。

 

そう。慶喜のお墓と同じような形をしていますね。昭和天皇のお墓の前には鳥居があります。つまり、天皇家は神道なんですね。その神道におけるお墓の形式がこの形になるわけです。

つまりどういう事かと言うと、慶喜というのは最後の将軍です。幕府側の人間から見ると徳川幕府を終わらせた将軍でけしからん、と。ただ、江戸城を無血開城し、明治政府に明け渡したことで外国からの侵略を免れ、新たな近代国家を成立させる為に一役買ったという見方もできる。(このあたりはまた解釈が難しい)いずれにせよ、明治維新がおこり天下の征夷大将軍が、幕府崩壊と共に一般人になった訳です。

ところが、その後明治天皇によって慶喜は公爵に叙せられる事になります。公爵というのは爵位における一番上の位です。そのような位を賜った事に感謝して、また天皇家への忠誠を誓う為に慶喜は自ら仏教徒から神道への宗旨替えを希望します。

初代家康は、自らを神格化する為に神道へ改宗しましたが、最後の将軍慶喜は、天皇への感謝の意味を込めて神道へと改宗したというわけです。

それにより、慶喜は両菩提寺である増上寺、寛永寺のいずれにも埋葬されずに、明治政府が作った新しい墓所である谷中霊園に埋葬されたというわけです。

墓に歴史あり。歴史にロマンあり。

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さて、この谷中霊園の慶喜のお墓の周辺には、子孫のお墓がこれまた点在しています。

例えば、上記写真は慶喜のお墓の向かい側にある場所なのですが、これは慶喜の出身家である一橋家のお墓です。

 

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この敷地内にひっそりと小さなお墓があります。※写真中央

これは、慶喜がまだ将軍になる前、一橋家の当主だった時代に正室の美賀子との間に生まれて、すぐに無くなってしまった女児のお墓だそうです。

このお墓には戒名が記されているのですが、戒名というのは仏教の考え方です。なので、先ほどの慶喜のお墓の方には誰の墓にも戒名は刻まれていません。しかし、この女児の墓は一橋家の時代のものなので仏式で埋葬されているわけです。

 

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こちらも、すぐちかくにあるお墓なのですが、まるで神社のように大木が生い茂っています。

 

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こちらは慶喜の10男、精(くわし)の墓。

苗字は「」とあります。この時代で勝といえばそう、勝海舟です。この精の妻伊代子というのは勝海舟の孫にあたります。この伊代子の父であった勝小鹿(ころく)が若くして亡くなってしまった為、その娘の伊代子の婿に精を招き、そして精を勝海舟の嫡男としたそうです。(複雑!)

 

こちらのお墓も、慶喜と同じく円墳型をしています。

観察し、疑問に思うことが民俗学の第一歩

普段気にも留めないようなお墓の場所や形なども、よくよく興味を持って観察してみたり、調べてみるとそこには昔の人の思惑や意図が見え隠れします。

全ての物事、成り立ちには理由があり、しかし長い年月を経ることでそれが見えにくくなってしまいます。また、宗教や民俗学、風習、文化などはひとつの観点からだけで見ると理解する事は難しいのだと思います。広い目線で、様々な角度から見てみると、その歴史的背景が浮き彫りにななってきます。

俺は子供の頃からこういった神社やお寺を巡るのが好きで、そこにある石碑や建造物などを観察しては、「なんでなんだろう?」と思ってきました。このように、なんでなんだろう?という素朴な疑問を常に持つことが、いつも暮らす街並みを刺激的な学びの場に変えるのかもしれません。

 

なんだかもっともっと勉強したくなってきました。お墓から紐解く歴史と文化。

読んでいただいた方々にも、興味を持ってもらえたら嬉しいです。

 

以上、ゴウでした。