エンジニア採用セミナー
エンジニア採用セミナー
2012.07.24

400年前から遊郭の日本代表!遊女たちの魂が残る名所に行ってきた。吉原「吉原大門〜吉原弁天池跡」

たかち

江戸時代に作られた「吉原遊郭」は、その刹那性と特殊な文化のため多くの人を魅了してきました。当時遊女と遊んでいた町人や武士はもちろんのこと、遊郭が無くなった後も学者の研究対象や小説や映画の題材となっています。

浅草の奥に現在も残る「吉原」は、日本一の風俗街として未だその地位を失っていません。吉原遊郭時代の面影はほとんど残っていませんが、当時の遊女たちを祀った場所もあるそうで、訪れてみました。

吉原遊郭の正面玄関だった、吉原大門。現在はただの交差点になってしまっていますが、名前がしっかり残っているんですね。

当時、吉原への出入り口は大門ひとつだけだったそうで、治安の為だけでなく、遊女の逃亡を防ぐ事が目的だったと言われています。
現在では面影がほとんど見られないのですが、周りには「お歯黒どぶ」という3.6mの堀が巡られていて、相当な警備体制だったとか。

 

吉原大門の交差点手前からは、スカイツリーがきれいに見えました。

交差点のガソリンスタンド前に位置する何気ないこの木も、吉原の名所。

見返り柳 – 旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから、「見返り柳」の名があり、多くの川柳の題材となっている。震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。

樋口一葉の小説「たけくらべ」の冒頭でも出てきますように、とっても有名な柳です。
もっと大木を想像していましたが、現代の波に揉まれちょっと萎れてしまったようですね。

 

見返り柳のあるガソリンスタンドを左手に進む道は「五十間道」と呼ばれています。
吉原唯一の出入り口「大門」に行くまでの道ですが、ここには今でも当時の名残が残っています。

不自然にS字カーブしている五十間道。 
これは将軍や大名が街道を通る際、遊郭を見渡せないようにするための配慮だそうです。
角を曲がれば吉原遊郭の入口、大門が見えてきます。

現在はこのように両脇に柱があるだけですが、江戸の頃は黒塗り木造のアーチ門があったとのこと。

吉原遊郭のメインストリート、仲之町通り。
手前には交番があり、ここは当時は遊女の逃亡を監視するための「四郎兵衛番所」だったそうです。 

仲之町通りの両脇には緑が映える柳と、風俗店がずらり。
昼間だというのに店々の入口には呼び込みをしようとするスーツ姿の男性がいました。
アウトドアのリュックに一眼レフを下げた遊女オーラ0のわたしは、彼らにとにかく凝視されました。カメラを。

吉原は撮影するとめちゃくちゃ怒られるので、中を撮るのは大変難しいそうです。

仲之町通りを歩いていくと、右手に見えるのは吉原神社。

小振りできれいな赤色をした吉原神社は、浅草七福神のひとつとして数えられています。
当時近くに点在していた5つの神社を1875年に合祀してできたそうです。
やはり土地柄でしょうか、女性の悩みを聞いてくれる神様がいらっしゃるんだとか。

 

本堂の右には「お穴様」と呼ばれる神様が。

お穴様 – 此処の地中には神社の土地をお守りする神様がおられます。心を込めてお詣りすると必ず福が得られると伝えられ大切にお護りしています。

立て看板にはこう書いてありました。
合祀された神様たちの力が眠っているんでしょう。

そのとき偶然、神社で九州から2年ほど寺社仏閣を渡り歩いているという男性にお会いしました。

数えきれないほどのお守りをつけたリュックサックを、大事そうに扱う男性。
一番上には真新しい吉原神社と今戸神社のお守りがついてありました。

日本にはこんなに素敵な旅人さんがいらっしゃるんですねえ。

男性と別れ、吉原神社からまたさらに歩くと、左手に現れるのは「吉原弁天池跡」
1875年に起きた関東大震災の際、逃げ遅れた遊女約500人がここにあった弁天池に飛び込み溺死しました。
その遊女たちの供養のためつくられたのがこちらの弁財天です。

大きな石碑の上に立つのは吉原観音様。
優しく凛々しいお顔をしてらっしゃいました。現在でもここへの献花は絶えないそうです。

弁天池跡にはこのような壁画が描かれています。
芸大生の方やアトリエ空鼠の方々が、淀んで人気の無いここの空気を払拭すべく立ち上がったとのこと。
奥に描かれている鮮やかな天女の絵は必見ですよ。

江戸の華として、遊郭の頭として創られてから400年。
当時の影を探しに、吉原を歩いてみてはいかがでしょうか。

===========================
吉原大門〜吉原弁天池跡

大きな地図で見る