まつもとゆきひろのプログラミング人生に学ぶ!学習継続のコツは?仕事と個人開発の両立の秘訣は?

まつもとゆきひろのプログラミング人生に学ぶ!学習継続のコツは?仕事と個人開発の両立の秘訣は?

Yu Mochizuki

Yu Mochizuki

広報室の望月です!
11月より、LIGの技術顧問にRuby開発者のまつもとゆきひろさん(以下、まつもとさん)をお迎えしました! まつもとさんの参画により、組織力・技術力を強化し、DX支援事業の更なる拡大を目指していきます。

先日、まつもとさんによる第1回目の勉強会が開催されました! 今回は「まつもと ゆきひろを知る会」と題して、まつもとさんの経歴を振り返りながら、エンジニアのスキルやキャリアUPのヒントを語っていただきました。

本勉強会を受けた社員からは、
「自分の「好き」を突き詰めていくことに凄く共感できた」
「年齢を重ねてもプログラミング力は向上するというお話に勇気をもらった」
「プログラミングの勉強法をもっと知りたい」
など、たくさんの前向きな感想が出てきました!

本記事では、勉強会の様子をダイジェストでお届けしていきます。

まつもと ゆきひろ
Rubyアソシエーション理事長
プログラミング言語Rubyの生みの親であり、一般財団法人Rubyアソシエーション理事長。株式会社ZOZOやLinkers株式会社など複数社で技術顧問などを務めている。オープンソース、エンジニアのコミュニティ形成などを通じて、国内外のエンジニアの能力向上やモチベーションアップなどに貢献している。

Ruby開発者のプログラミングとの出会い


ーーまずはじめに、まつもとさんとプログラミングとの出会いのエピソードを聞かせてください!

まつもと:私がプログラミングと出会ったのは中学3年生のとき。父から「SHARP 1210」というポケットコンピューターを与えられたことがきっかけでした。このポケットコンピューターに「BASIC」言語が搭載されており、はじめてプログラムを組むことになるんです。ただ、行数や変数が限られており、関数などもないため、当時はプログラミングのおもしろさがわかりませんでした。

その後、本屋でプログラミング関連の書籍を見つけ、「BASIC」以外にもいろいろな言語があることを知るようになります。言語ごとの違いなどを知り、プログラミング言語に興味を持つようになっていきました。

ーー当時は1980〜1990年ごろなので、今と比べてIT環境も大きく違いますよね。

まつもと:そうですね。私が高校生だったころは、なかなかパソコンに触れる機会もなかったため、整った環境でプログラミングができなかった。そのぶん、雑誌や書籍を読み漁りながら知識を身に付け、「自分もいつかはすごいものをつくるぞ!」と興味を膨らませていましたね。

大学に入ってからは、コンピューターサイエンスを専攻し、そこから、本格的にプログラミングに没頭するようになりました。

ーーその後、プログラミング言語をつくりたいと思うようになったきっかけはありますか?

まつもと:プログラミング言語に触れているうちに、「自分の頭の中の思考をどう表現するか」というコミュニケーション領域への関心を持つようになっていきました。特に、人工言語によって思考を表現することに興味が湧き、プログラミング言語は表現方法の1つであることに気が付いたんです。

高校生のときには、自分も言語をつくってみたいと思うようになり、大学生のころには実際に手を動かして具現化しはじめ、就職後に本格的に開発をするようになります。

まつもとさんのキャリアとRuby開発の軌跡

まつもと ゆきひろさん Ruby
1990年 大学卒業後、日本タイムシェア株式会社入社
1993年 概念としてRubyが誕生
1994年 株式会社トヨタケーラム入社
1995年 Ruby発表
1996年 Ruby1.0リリース
1997年 ネットワーク応用通信研究所 主任研究員に就
2007年 Ruby1.8から1.9へバージョンアップ
2008年 RubyアソシエーションLLC設立
2009年 島根県松江市の名誉市民に
2011年 一般財団法人Rubyアソシエーション設立
2012年 内閣府から「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」 の一人に選ばれる RubyがISO/IEC企画として承認される
2013年 政府の IT 総合戦略本部の本部員に就任 Ruby 2.0.0リリース
2014年 mruby 1.0.0リリース
2018年 Ruby25周年、Ruby2.6正式版リリース

1社目:社内システムを開発しながら、隙間時間にRuby開発

まつもと:大学卒業後は、当時静岡県にあった日本タイムシェアという、ソフトウエア開発会社へ入社します。私は、エンジニアが生産性を高めるための社内システムをつくる部署に在籍していました。やがてバブルの崩壊が起き、採算が合わなくなっていったことから、私がいた部署は解散。私はメンテナンス要員として残りましたが、仕事量が少なくなり、 空いた時間でRubyを開発することになります。

ーー具体的にどのような流れで開発をしていったのでしょうか?

まつもと:高校生のころから描いていた構想と大学時代に学んだコンピューターサイエンスの知見を活かし、1993年の2月より実際に開発を進めていくようになります。半年後にハローワールドが動き、その2ヶ月後にガベージコレクターができる、といった流れで段階的に開発を進めていきました。

2社目:研究開発プロジェクトのソフトウエアを開発

まつもと:前職の職場環境や経営状況の悪化から転職を決意するようになり、トヨタ子会社のトヨタケーラムという会社に入社します。配属された部署では、社内のCADシステムをつくっていて、その開発を担当していました。最初の数ヶ月は、CADシステムの開発に関わるも、その後、造船関係の研究開発プロジェクトにてソフトウエア開発を担当することになります。

ーーこの会社でもRuby開発を続けるんですか?

まつもと:はい。引き続き、仕事の合間に開発を行っていましたね(笑)。

その後、1994年12月にRuby アルファ版をリリース。当時、「ネットニューズ」という掲示板のようなサービスがあり、そこのグループコミュニティに情報を投稿しました。集まった有志の方達の意見を取り入れながらアップデートを繰り返し、1995年12月に正式リリースしました。

ーーリリースした当初、世の中の反応はどうでしたか?

まつもと:想定していたよりも多くの人に興味を持っていただきました。その要因として、完成度の高さを評価いただいた部分がありました。また1995年前後は、JavaやJavaScript、PHPなどさまざまなプログラミング言語が世の中に誕生し、Windows 95の登場によってパソコン・インターネットが大衆化したことから、多くの人に興味を持っていただきました。

3社目(現在):会社員をしながら、Rubyの普及・発展へ

まつもと:その後、知人が「オープンソースのソフトウエアを使った開発事業」で企業し、1997年に島根県松江市にある株式会社ネットワーク応用通信研究所へ入社。現在も研究員として在籍しながら、さまざまな企業の技術顧問を勤めています。

ーーRubyリリース後はどのように発展していったのでしょうか?

まつもと:Rubyがリリースしてから10年間ぐらいは、知っている人は知っているもののユーザーはそこまで増えず、正直鳴かず飛ばずの状態でした。しかし、2000年代半ばごろから、松江市の産業振興にRubyを使う「Ruby City MATSUE」というプロジェクトがスタートしたり、さまざまな企業のサービス開発にRubyを使っていただくようになりました。

2011年に、プログラミング言語Rubyの普及と発展を目的に「Rubyアソシエーション」を設立。2023年にはRuby誕生30周年を迎えます。

エンジニアのスキルやキャリアのお悩み解決!


ここからは、まつもとさんが培ってきた知見をもとに、日頃エンジニアが抱えている疑問や悩みに答えていただきました。

Q.プログラミング学習を続けるためにはどんなことを意識したらいいですか?

まつもと:プログラミングには、機械学習やアルゴリズム、アプリ開発などさまざまなジャンルがあり、全てに興味を持つ必要はありません。自分の興味がある範囲を追いかけていくことをおすすめします。私自身、機械学習などはあまり得意ではないので、それらは他の人に任せて、興味のある言語に特化してやってきました。やりたいことをやることで、モチベーションを保ち続けることができます。

また、自分にルールを課すことも大切です。私は今でも、メインプログラマーとして「mruby」の開発に関わっており、可能な限り毎日1コミットすることをルールとして課しています。

ーーやりたいことをやる、継続する仕組みをつくる、と。

まつもと:日々プログラミングをしていると、モチベーションにムラが出てくるので、今日は10コミットぐらい頑張ったけど、次の日には0になりかねないときもあります。そういうときは、今日は9コミットまでにして、次の日に1コミットをやろう、というずるい方法を選ぶこともありますよ(笑)。

Q.仕事と並行して個人の開発を続けるコツはありますか?

まつもと:個人開発(Ruby開発)は「自分がやりたいこと」、仕事は「生活するために必要なこと」として取り組んでいました。仕事は期限があるので、それを守らないと生活ができなくなってしまう。そのために、仕事はなるべく効率的にこなし、Rubyへ注力する時間を段々と増やしていきました。すると、Rubyの知名度が上がり、関連するさまざまなお仕事をいただくようになる。やがて本業になっていき、現在に至ります。

ーー仕事もRuby開発もプログラミングという観点では共通していると思います。どうやって気持ちを切り替えていましたか?

まつもと:目的に合った、誰かの役に立つソフトウエアを作りたいという思いは共通にあります。そのなかで、いかに仕事を自分のやりたいことに近づけていくか、もポイントですね。例えば、仕事でツール開発をしているなかでつくったものを、自身のライブラリやフレームワークとして蓄積していくとか(笑)。

ーーなるほど。一方で、仕事が忙しくて個人の開発にまで力がまわらないという声もよく聞きますが……。

まつもと:受託開発の場合は、特にそうですよね。私はスケジュールを組むときに、周りの期待と自分の力量・手を動かす速さを計算し、十分なバッファを積むことを心がけていました。多くの人はある仕事の依頼がきて、「これは自分にできる」と判断するときに、自分のフルパワーをベースにスケジュールを計算することが多いのではないでしょうか。

でも、実際にその仕事を進めていると別の業務が入ってきたり、対応をしなければならないこともあり、フルパワーが発揮できる機会はほとんどありません。なので、「フルパワー+α」のスケジュールを見積もることをオススメします。

Q.プログラマーにとっての「35歳定年説」という風潮がありますが、まつもとさんはキャリアに対する不安はなかったですか?

まつもと:そもそも、この「35歳定年説」は、損益分岐点からきていると思います。多くの企業において、35歳のプログラマーは、ソフトウエアを開発すること(プログラミング)で生み出す価値と、その人に支払われる給料の間に乖離が生まれやすくなる。そこで、企業はその人たちに、プログラミングよりもマネジメントに対する価値を求めるケースが多くなる。本来、プログラマーがコードを書き、開発することでお金が生み出されているんですが、そこを評価しなくなる。そのような構造が「35歳定年説」の発端だと思います。こんな構造はなくなるべきだと思いますし、もっとプログラマーが評価されるべきだと思っています。

それに、現在のIT業界は変化が激しく、先のことがとてもわかりづらい状況です。5年先・10年先のキャリアを考えることは無駄なのかなと。私自身は、まったく気にしたことはありません!

Q.年齢を重ねることで、プログラマーとしてのスキルの変化を感じますか?

まつもと:体力・気力の低下を感じていますね。今、Rubyのような新しい言語をつくり出すとなれば腰が重たくなって、20代のときのようにはいかないでしょう。何もないゼロの状態から新しいものを生み出す意欲は低下してきています。

ただ、年齢・経験を重ねると開発の質が上がっていくと思います。年齢を重ねることで、多くのコードを読むようになる。また、さまざまな開発に関わることで、知識や経験が自然と身に付いていく。すると、10年前と今を比べても、よりクオリティの高いコードを書けるようになっていると感じます。

まとめ:次回の勉強会も乞うご期待!

まつもとさんのキャリアの振り返り、Ruby開発の歩み、質疑応答を経て、今回の勉強会は
終幕。本件勉強会を通じて、参加したエンジニアは新たな気付きを得たり、背中を押してもらうきっかけになったようです。今後も勉強会の様子を発信し、エンジニアのみなさんに有益な情報をお届けしていきます!

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アパレル企業にて販売員を経験後、編集プロダクションにて、エディターとしてのキャリアをスタート。雑誌編集、アパレルブランドや商業施設の販促物・Webコンテンツ・店頭装飾物・ビジュアル制作などに関わる。2020年7月にLIGに入社し、さまざまな企業のオウンドメディア支援に携わる。2022年7月より広報チーム所属。

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