LIGの代表になるまでの道のりと、当時の想いを振り返る|LIG代表・大山智弘

LIGの代表になるまでの道のりと、当時の想いを振り返る|LIG代表・大山智弘

Tomohiro Oyama

Tomohiro Oyama

こんにちは、LIG代表の大山です。

今回から、月に1回ほどのペースで、経営者として考えていることをLIGブログに書いていくことになりました。きっかけは、編集部からの「連載を書きませんか」というひと言です。

正直に打ち明けると、僕は発信が好きではありません。自分を大きく見せるのも、声を張って何かを主張するのも、昔から苦手なほうです。

それでも引き受けたのは、外から見えているLIGと、実際のLIGとのあいだに、けっこうなギャップがある気がしていたからです。放っておいても埋まらないなら、自分の言葉で少しずつ埋めていくしかない。そう思って、書くことにしました。

ただ、会社のギャップの話をする前に、まずは僕自身が何者なのかを知ってもらわないと、始まらないとも思っています。

僕のように、発信も苦手なら前に出るのも苦手、という人間は、得てして手堅く生きていると思われがちです。でも振り返ると、人生の節目ではいつもリスクの高いほうの道に立っていたような気がします。狙って選んだつもりはなく、気がつけばそうなっていた感じです。

その最たるものが、LIGの代表になったこと。

なので今回は、僕がこれまでどう生きてきて、なぜいま社長をやっているのか、という話を書きます。少し長くなりますが、お付き合いください。

「経営者になる」だけは、ずっと決めていた

新卒で就職したのはアパレルのユナイテッドアローズ。そこから、経営を学びにイギリスへ渡り、その後、帰国しリクルートに転職。そして、退職後ベトナムで開発会社を立ち上げました。

ここまでの経歴を振り返ると業界も職種もばらばらですが、実は自分の中では一本の線でつながっているんです。それは「経営者になる」ということ。この気持ちだけは、社会人になる前から変わっていません。

この気持ちの原点にあるのは、父と叔父の存在だと思います。

僕の父は銀行員でした。毎朝6時ごろから勉強をし、それから仕事に出かけていくという毎日でした。いまでも覚えているのは、ある日の昼間、父が見たこともないくらい辛そうな顔で家に帰ってきたこと。普段では帰ってくることのない時間。おそらく仕事で何かあったのだと思います。理由は結局、わからないままですが、子どもの目にも、大変そうな仕事に見えました。

一方で、父の兄である僕の叔父は、テキスタイルの会社を経営しており、軍用車みたいなジープに乗って、好きなことをやり楽しそうに生きているように見えました。同じ兄弟なのに、ずいぶん対照的です。

そんな二人を見ていて、いつしか自分の中に「組織に勤める限り、どれだけ役職が上がっても、自分の人生を自分で決めるのは難しいのかもしれない。だったら、自分の人生を自分で決められるようになりたい」という想いが芽生えました。そして、それがそのまま「経営者になりたい」につながったのだと思います。

はっきりと経営者への道を決めたのは、大学生のころ。高校時代の出来事がきっかけでした。日々一緒に遊んでいた友人が、3ヶ月で偏差値を40ほどから70近くまで上げて、早稲田大学に合格したことがあったのです。

そのとき感じたのは、「勉強でこういう人たちには敵わない。エリートの土俵で勝負したら、自分に勝ち目はない」ということ。「だったら、自分の土俵は自分でつくるしかない」、そう心に決めたんです。

リクルートでの気づきが、ベトナムでの起業につながった

転職先にリクルートを選んだのは、経営に必要な営業力を身につけたかったから。

所属部署は、企業の採用を支援する求人広告の営業でした。忘れられないのは、あるベンチャー企業を担当していたときのこと。お客様に約200万円の求人広告を買っていただいたのですが、エンジニアが1人も採用できなかったんです。

当然、厳しい言葉をいただきましたし、本当に申し訳ない気持ちにもなりました。ただ同時に、頭のどこかでひらめくものがあったんです。「この採用難を解決できたら、大きな商売になるのでは?」と。

たどり着いた答えが、オフショア開発。「日本でエンジニアが採れないなら、海外の優秀なエンジニアチームに開発ごと任せればいい」。営業として採用に困っている会社を誰よりも近くで見てきたからこそ、ニーズの大きさは肌で感じていました。

「これなら賭けられる!」

そう思い、リクルートを退社してベトナムのホーチミン市で開発会社を立ち上げました。まだホーチミン市には日本人がほとんどおらず、ラーメン屋が1〜2店舗しかなかった頃の話です。

ベトナム時代の大山さん▲ベトナム時代の自分。若いです

いつも選んできたのは、リスクのある踏み出す道

ゼロから会社をつくる経験は、ベトナムでの起業後も何度かしています。その中には、続いている事業もあれば、畳んだ事業もあります。

振り返ると、アパレルを離れるときも、リクルートを辞めるときも、新しい会社を始めるときも、節目にはいつも、とどまる道と踏み出す道の両方があった気がします。

とどまれば、それまで積み上げたキャリアの上で、安定して生きていける。一方、踏み出す場合はどうだったか。アパレルを辞めてイギリスへ渡ったときは、キャリアに空白ができて再就職すら難しくなるかもしれませんでした。リクルートを辞めてベトナムで起業したときは、事業がうまくいかなければ借金を背負うかもしれませんでした。

それでも、選ぶのはいつも険しさの目立つ踏み出す道。我ながら安定や無難という言葉とは、ずいぶん縁のない生き方をしてきたと思います。

けっして、苦労が好きなわけではありません。楽できるなら楽をしたい。心からそう思っています。それでも踏み出す道ばかりを歩いてきたのは、その先に「なりたい自分像」があったから。

そこへ向かうのに必要な選択を重ねていったら、結果的に、いつも険しい道だった。あえて選んだのではなく、必要な道が険しかっただけなんです。

なりたい自分像というのは、「やりたいと思ったことを全部やりきれている自分」のこと。

やりたいことって、いつやってくるかわからないもの。たとえば、僕は昔からサウナが好きなのですが、自分が事業として関わるなんて想像もしていなかった。けれど、あるときLIGでサウナ事業に関わる機会が突然やってきました。

そういうチャンスが巡ってきた瞬間に、「やりたい」をきちんとやれる自分でありたいと思っています。

ちなみに、やりたいことはまだたくさんあります。バイクショップもやりたいし、シャツの専門店もやってみたい、最高級の介護施設もつくりたい。

つまり、いまの自分はなりたい自分像にはまだまだ程遠い、ということです。

なりたい自分像に近づくには、この先も踏み出し続けるしかありません。それは、リスクを取り続けるということです。

そのリスクについて、最近思っていることがあります。

世の中を見ても、周りの人たちを見ても、大きなことを成し遂げた人は、必ずどこかで大きなリスクを取っています。これは断言してもいい。

ただ、リスクは、取りたければ取れるというものでもありません。信用や実績のない人に、社会は大きなリスクを取らせてくれないからです。だとすると、大きなリスクを取れていること自体が、その人の力の証明なのかもしれない。

逆に、リスクを取らない選択をしたときは、「自分にはまだ、それを取るだけの力がない」と、自分で認めたのと同じなのかもしれません。

だから僕にとって、踏み出すかどうかはいつも、勇気があるかないかではなく、「いまの自分に力があるか」を突きつけられる場面だったのだと思います。

キャリアマップ

LIGとの9年間、そして「代表をやる」と決めた日

LIGとの出会いは、ベトナム時代にさかのぼります。

当時のLIGの取締役が視察でベトナムの会社を訪れたのがきっかけ。そのあと日本でも会うようになり、ちょうど次の自分の会社(ケアクル社)を立ち上げる準備をしていた時期に、「LIGを手伝ってもらえないか」と誘いを受けたんです。

最初は週2〜3日、顧問のような立場で、業務の仕組み化や業務改善といった、経営全般のサポートをする関わり方でした。その後、常勤の取締役の退任を機に僕が常勤となり、副社長、そして代表になりました。

気づけば、LIGに関わって9年ほどになります。僕にとっては、いちばん長く関わっている会社です。その9年の中でいちばん大きな分かれ道が、「代表を引き受けるかどうか」でした。

正直に書くと、代表に就いた当時、LIGの経営は相当厳しい状況にありました。

売上は落ち込み、いつ倒産してもおかしくない。気づけば、経営を担うのは前代表と僕のふたりだけになっていました。

そんな会社の代表を、わざわざ引き受けるというのは、冷静に考えれば意味がわからない選択です(笑)。実際、あの状況の中で「社長をやってくれ」と言われて引き受ける人は、この世の中にほぼいないと、今でも思っています。

では、なぜ引き受けたのか。その理由はもう少しあとに書くとして、まずは、決まるまでの経緯からお話しします。

代表になる話は、前代表、僕のどちらか一方から切り出したというものではありません。このまま前代表のやり方で経営を続けていくのか、それとも僕が社長になり、やり方を変えながら立て直していくのか。腹を割って二人でとことん話し合いました。

正直、現実的な懸念もありました。当時は自分が創業したケアクル社の経営もあり、両方に手を出して、どちらの経営も中途半端になるのではないか、という懸念です。

もちろん自分が社長をやったとしても、立て直しには時間がかかるし、うまくいく保証もありません。でも、最終的に前代表が「任せる」と背中を押してくれた。その一言で、僕は代表を引き受けました。

前代表は、僕がこれまででいちばん議論してきた経営メンバーです。LIGのなかで言えば、戦友みたいな感じですかね。

▲社長交代を告げた2021年10月1日の記事『社長を交代しまーす!』で撮影した前社長との2ショット。決断してまもない頃です。

LIGの代表になるというのは、これまでのどの選択とも重さが違いました。自分でゼロからつくった会社なら、リスクをかぶるのは自分だけ。でも歴史のある会社を引き受けるというのは、そこで働く人たちと、積み上げられてきたブランドをまるごと背負うということです。

怖くなかった、といえば嘘になります。それでも「やります」と口にしたとき、迷いは思ったより少なかったのを覚えています。

世の中に、何かを残したい

迷いが少なかった理由は、はっきりしています。

僕には、昔から持ち続けている「世の中に、何かを残したい」という想いがあります。

たとえば「この橋、お父さんが作ったんだよ」と、誰かに自慢してもらえるような何かです。そういうものを自分の手で残したい。せっかく一度きりの仕事人生なら、それくらいのものを賭けたいと強く思っています。

LIGの代表という椅子は、この想いに正面から応えてくれる場所でした。

LIGには、長く続いてきた歴史と、一緒に働く仲間と、世の中に知られてきたブランドがすでにあります。LIGブログのように、これまで積み上げられてきたものを途切れさせず、次の時代に残していけたら、それは僕にとっての「橋」になる。そう感じたんです。

それに、LIGが掲げる「LIFE IS GOOD」という言葉は、僕がケアクル社で大切にしてきた「生きるを豊かに」という想いと、近いものを感じていました。根っこの部分で近い考え方を持つ会社だったことも、LIGの代表を引き受けると決めるうえで、少なからず影響していたと思います。

とはいえ、もちろん想いだけで大きなリスクは取れません。迷ったとき、最後に自分へ課している問いがあります。

「ここで中途半端に済ませて、この先も平気な顔をして生きていけるか?」

安全な場所に身を置き、ほどよい距離感で関わる働き方ももちろんあります。ただ、自分がその方法を選ぶと、たぶんモヤモヤした気持ち悪さを一生抱えたままになる。自分にとっては、それがいちばん怖いこと。

だったら、きちんとリスクを取ってやるほうがいい。だから、この椅子に座りました。中途半端にやるつもりは、ありません。

最後に、少しだけ会社の話を

LIG20周年集合写真
▲LIG20周年記念パーティでの集合写真。まだまだここからです

代表になって数年が経ちました。そのあいだ、ずっと頭にあったのが、冒頭に書いた「外から見えているLIGと、実際のLIGとのギャップ」の話です。

たぶんLIGって、周りからは「Web制作とたまに面白い記事を出す会社」と思われている気がします。でも、実際にやっている仕事は、そのイメージよりもだいぶ幅が広い。これについては一言では説明しづらいので、この連載のなかで、少しずつ埋めていくつもりです。

それで、この記事を読んだ人が少しでもLIGを好きになってくれたら、素直に嬉しいです。

次は、どんな人と一緒に働きたいか、という話を。しれっと続けますので、よかったらまた覗いてください。

この記事のシェア数

新卒にて株式会社ユナイテッドアローズ入社。イギリス留学を経て、株式会社リクルートに入社。その後、ベトナム法人EVOLABLE ASIA Co., Ltd代表取締役社長に就任。退任後は株式会社リンクバル入社。IPOを経験後、株式会社ケアクル創業。2017年より株式会社LIGに参画。2021年10月より代表取締役。

このメンバーの記事をもっと読む
デザイン力×グローバルな開発体制でDXをトータル支援
お問い合わせ 会社概要DL